明治32年頃の、交通事情
伊庭貞剛と、上阪中の別子支配人・鈴木馬左也は、陸軍と医学校の救護団員29名の一行と共に梅田を発って現地に急行した。
8月30日 大阪(梅田) 20:20発 −−>尾道
9月 1日 夜、新居浜着
31日の午後に至りて神戸新聞社に達するや、江見水陰は、自ら進んで派遣の任に当たり、単身軽装して起てり。
8月31日 (神戸) 23:40 −−>山鉄の急行列車 −−> 9月 1日 6:10 尾道着
9月 1日 尾道 12:00 −−>木津川丸(四坂・今治経由) −−>御代島 20:20 −>ハシケで約50分 −>新居浜着
9月 3日 新居浜(惣開) 7:00 −>下部鉄道 −> 立川村の入口の給水所 −>徒歩ー>石ヶ山丈 11:20
住友は、明治24年(1891)汽船事業を再開した。この年、山陽鉄道が尾道まで延長された機会に、
新居浜から尾道まで船で鉄道に連絡するという輸送方法を考え、木造船 御代島丸(32t)を新造し、
新居浜・尾道航路を開いた。
御代島丸は船体が小さく、乗客収容人員が少なかった為、26年 3月、大阪商船から木津川丸(137t、乗客定員75名)を、
購入してこの航路に就航させた。
27年(1894)には、住友汽船は、新居浜・尾道線(寄港地、西条・丹生川・今治・四坂島・弓削・三之庄)の
航路を開始し、毎日2往復した。
明治31年(1898)頃の、定期運行時刻表は、以下の様だった。
新居浜発 午前5時 −>西条 6時 −>今治 8時 −>四坂 9時 −> 尾道着 11:30
↓
新居浜着 午後6:30 <−西条17;:45 <−今治16:00<−四坂14:30<−尾道発 12:00
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小説等からの、所要時間を、抜き出してみました。
新居浜ーー>尾道 約6時間半
尾道 −−>大阪 約8時間
普段なら、新居浜 6:00−−>尾道12:00−−>大阪21−22:00着だが、台風は別子が特にひどかったのだが、
香川・岡山にも大きな被害をもたらしています。
29日中には、大阪に到着する予定が、列車の運行が、徐行したり、止まったりしたので、
大阪に着いたのは、30日朝。それから住友本店へ行き報告したのが、10:00と想像します。
伊庭貞剛は、その日の、22:20分大阪を出て、31日朝に尾道に到着しています。
30日朝から、レール等の点検を済ませ、夜には定時運行できていたのではないでしょうか。
船便で大阪へ行けない事も無かったのでしょうが、潮の流れで仁尾方面へ、家、人、馬、流木が流されて、海上は運行難。
それよりも、尾道、今治、四坂からの、物資・人手の運搬が重要だったでしょう。
3,000人を別子への応援部隊に送っています。その人々の食料確保に木津川丸は活躍しています。
<薀蓄>
後年、四国にも鉄道が走るのだが、讃岐から伊予に向かうので、讃豫線(SANYO)と名付ける予定だったが、
山陽線(SANYOU)と、間違うので、予讃線となった。
現在では、瀬戸大橋が出来て、大阪も近く感じるが、山陽新幹線が出来た時には、まだ、高松で宇高連絡船を
使うしかなかった。一時期(1985−88)高速艇を、新居浜ー尾道間で、運行して便利を計った時もある。