明治32年 大水害・その後
明治32年、東延および角石原の全盛期に入りつつあるそのころ、別子山中の就業員は総数2千2−3百人と言われていた。
その家族を加えれば相当夥しい数に上り、住めば都の言葉そのもの。
当時の別子はもはや硫黄たち迷う稀疏たる山中の抗場ではなくして、時に絃歌湧く賑かな町であった。
「だが、回顧すればこれが山上繁栄の絶頂であった」 別子開坑250年史話より
明治32年の大水害を取り上げた記事には、良く出てくる言葉である。
確かにインパクトのある言葉である。
別子銅山を研究している曽我氏から、「その後も、生産量は増えているし、人口も増加しています。」 と、聞かされた。
調べてみます !!
”大水害” と、言われるが、鉱山経営にどれくらいの影響があったのでしょうか。
明治の、別子銅山の産銅量の表がありましたので、紹介しておきます。
産銅量は、明治32年も順調に増加しています。
大水害は、8月28日で、1年の3分の2が過ぎた時に起こりました。
9月以降、産業活動出来なかったでしょうが、それでも前年実績を上回っています。
日清戦争後の好景気だったでしょうから、この災害が無ければ、もっと増産だったと推測します。
(もっとも被害の大きかった高橋の精錬所の大溶鉱炉が倒壊し、他の建物もすべて水禍を受け、復興を断念し、
11月16日より、ただ焼鉱のみをすることにして、精錬は新居浜精錬所に、移すに至りました。)
翌年の明治33年は、前半は、大水害の後遺症を引きずっていたのでしょう。
32年よりは、落ち込んでいますが、31年の実績を上回っています。
次の年は、飛躍的に伸びています。
では、人口は、どうだったのでしょう ?
明治34年以降の、データーはありましたが、調べてみたかった明治30−33年の統計が有りません。
(水害を機に、戸籍調査を本格的に始めたのか? 役場も水害にあって資料がなくなったのか?判りません。)
しかし、水害後も、明治38年をピークとして、人口は増え続けています。
気になるのは、男女の人口比です。
男性が圧倒的に多いです。
普通は、男女比同じくらいか、少し女性が多いのが普通です。
・・・、と言う事は、別子銅山に今で言う、単身赴任の労働人口が、集まってきたと言うことでしょう。
明治35年 第三通銅貫通
明治38年 東平ーー黒石間に複式索道設置
明治39年 私立東平尋常高等小学校開校
大正 5年 採鉱本部を、東平に移転
上の表から見ても、明治39−>40年に、別子山の人口が減っています。
東平に、尋常高等小学校が出来るくらい、東平に移転したのでしょう。
それまで、男性の人口減少が見られましたが、明治40年には、女性人口も減少しています。
これは、家族で生活していた世帯が、旧別子から準備の出来た東平に移転したと見てよいかと思います。
そして、大正5年採鉱本部が東平に移転して、旧別子の凋落が確実になりました。
男女共に、減少しています。採鉱本部で最後まで活躍していた人々も、東平に向かったと言うことでしょう。
鉱山町の、宿命でしょう。