住友汽船


 住友汽船という名称の企業が存在した事は無く、あくまでも住友家の汽船事業であり、
住友鉱山の海運部門であった。
 


  半生物語 (広瀬宰平) より


  銅山に賭けた男たち (坂本勲) より



 

  住友王国(上) 邦光史郎 より

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 「別子鉱山史・上巻」です。 信頼しても良いと思います。


 

 「瀬戸内近代海運創史」にありました。 調べてみたいと思います。




 
 「住友物語」 にも誤りとあります。 実際は、どうだったのでしょうか ?

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 「半生物語」 広瀬宰平が、総理事を退任した後、明治27年12/1 紀州湯崎温泉に赴き、執筆とある。
当時67歳であった。 大正3年(1914)87歳で他界しています。
まだ、認知症にもなっていないと思われるが、この時、ラロックが和船を嫌がり、「外国小汽船を買い入れる。」 と、あります。
明治7年 2月に来日。 3月に、ラロックは別子に赴任しています。

 調べて行くと、明治5年(1872)11月、英国人所有の木造蒸気船 神戸丸(54t・2本マスト・長さ24m・幅4,5m)を18,000ドルで購入し、
屋号の「泉屋」にちなみ、白水丸と命名した。 と有ります、
明治6年 3月に新居浜港に初入港。
その後、大阪ー神戸間の一般貨客の運送営業を始めたが、7年5月 大阪ー神戸間に鉄道が開通。
明治7年 6月から阪神と新居浜間を就航し、別子銅山の銅と、一般貨客の運送を開始した。
 と言う事は、明治7年3月にラロックを乗せ、神戸ー新居浜間に、特別便を運行したことになります。