伊予屋
目出度町には今日のデパートに相当する大商店、伊予屋があった。
直接販売にかかる店員が十名もいたという。
角石原が賑わった頃には支店も出していた。
目出度町には伊予屋を先頭に、えびす屋の奥定商店、料亭一心楼、小料理屋養老亭、
あんけら屋、その他旅館、食堂、商店等があった。
また小足谷下前部落には、料亭の泉亭や、小富士亭、旅館の河内屋、藤田質店等、
あたかも雨後の筍の如く山内の生活を潤す施設が次々と出現していったのである。
「目出度町には 掃(ほうき)はいらぬ おそで おそめの 袖ではく」
と言われる位、賑わっていた様である。
ところが目出度町の一角にいち早く当時としては巨大な一家を構えて大商いをしていた伊予屋が、
明治中期に至って目出度町より姿を消している。
しかし、銅山から去ったのではなく、ちゃんと木方に一家を構えて雑貨商店を経営していたのである。
だが既に名声地に落ちた感がしないでもない。伊予屋の凋落と考えるべきであろうか。(明治の別子より)
別子郷土史に、宿屋の、項目がある。 (これは、そのまま別子山村史に、使われています)
目出度町には、本舖が在り今で言う本社採用の優秀な人物が多かったと思われる。
その、人物が、別子の山の中での勤務である。
不満も出てくるであろう。
給料も採鉱夫達よりも、多かったことは想像できます。
その方々が、勤務終了後、向かった先は ・・・・
”飲み屋”
何も無い山中で、ストレスを発散させるには、ヤッパリこれでしょう。
不思議なのは、大正5年に、採鉱本部が東平に移転しますが、この地には、この様な歓楽街が在りません。
旧別子は、1691年の江戸時代から、続いた町です。
昔から住んでいた旧住民の既得権というか、そう言う土地もあったことは、容易に想像出来ます。
それに対して、東平は新規に、住友によって開発されて土地です。
住友に、占有されていたのでしょう。
で、新規に旧別子で華々しく商店を経営されていた人々を、受け入れなかった事も考えられます。
仕事を終わってから、小料理屋へ出かけるのは、平地に比べていくら給料が良くても鉱夫には、無理でしょう。
やっぱり本社採用の用人さんが主な客だったと思います。
その用人さん達が、東平に移転してしまっては、商売にならなかったのだと思います。
採鉱夫は、酒が嫌いだった? それは,無いと思います。
仕事の疲れを、酒で紛らわしていたことでしょう。
その為に、旧別子に住友自前の、醸造所まで作っています。
ただ、小料理屋へ行く金は無いが、家で飲んで楽しんでいたのかも知れません。
別子の山中ですが、記録も無いのですが、
雇人さんたちには、今で言う、”交際費”とかがあって、それが歓楽街に落ちた可能性も有ります。
採鉱量は、年々増えていて、バブルの時代の様でしたから、認められていたかもしれません。
が、・・ 大阪本店や、上層部は、苦々しく思っていたのは、想像出来ます。
昔から続いていた、習慣ですから急に変えることも出来ません。
東平移転をきっかけに、実行したとも思われます。
住友は、”まじめ”な、会社だったと思います。
東平では、運動会の打ち上げに小料理屋に行くことなく、
部落の集まりで、打ち上げをしていたことでしょう。
昼間、部落対抗で運動会を開催して、
夜は、部落で本日の結束を確認しながら、”打ち上げ”。
東平は、町全体が、一つの家族 !!
その様に、会社が持って行ったのかも知れません。
飯場改革以降、大きな問題点は出ていません。
(ここに書いた事は、事実の裏付けもなく、私が想像して書いた文章です。反論を期待しております。)