仁尾町
立川の 慰霊碑には、「南の墓地に ・・・ 」とあったので、仁尾町の南にあるお寺を探して行った。
・・・・が、ない !!
私は、町の南の方角にあると、思い込んでいました。
仁尾町は、京都を思わせる町でした。[南墓地」と、「北墓地」があるようです。
その「南の墓地」に、宝生庵があって、共同墓地になっているようです。
人口の割にお寺が多い街に感じました。
宝生庵 この右手奥にあった。
管理も、行き届いているようである。
100年余の、風雪にたえてきているから、読み取れないところもあった。
仁尾町の図書館に行くと仁尾町史の中に記述があった。(左)
碑文が読めなかっただけに、わくわくして読んだ。でも、読めないところもあるようで、□ が、ある。
でも、満足して、新居浜に引き上げてきました。
後日、新居浜の図書館に行って調べていると、
「新居浜史談」に、仁尾の碑文が出ていた。(右)
しかも、□ が、埋められている。 どの様にして、読めたか謎だが、脱帽である。
仁尾町の、図書館で、この碑文について質問して見ました。
すると、「近所に詳しい方がいますので、呼んでみます。」とのことで、暑い日だったが、オートバイで来てくれました。
失礼な事に、色々お聞きしたのですが、わざわざ来てくれ説明をしてくれた方の、お名前をお聞きするのを忘れていました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。
要約しますと、仁尾町に漂着した遺体と一緒に、”イゲタ”のマーク が、あったようで、これは、「住友」 ではないかと !! と、
新居浜に連絡したようですが、返事が無かったようです。
その時の、新居浜はと言いますと、旧別子では、山津波で513人の、犠牲者が出ていました。
立川でも、145人の犠牲者がありました。
8/29から、9/2に延べ、3000人を動員して捜索にあたっていましたので、仁尾町からの
情報は、届いていたのかもしれませんが、それどころではなく、埋もれてしまったのかも知れませんが、
返事がないまま、8月の暑さの中、そのままおいていくわけにも行かず、地元の方により手厚く葬られた様です。
でも、中には、家の形を保ったまま流れてきたのもあったようで、その中に。1人の生存者があったとも聞きました。
残念ながら、その生存者の名前も判りませんし、その生存者の、漂流記も、残っていません。
もし、そういう記述が残っていれば、新発見になると思います。