明治32年 8月 28日 の、雨量 について
知人から、もらった資料です。
旧別子での、観測記録の様です。 多分、現代、書かれている本の、根拠はこれだと思います。
左・下の部分の拡大です。
雨量ハ翌朝測リタリ 但 廿八日午後九時頃ニ於テ
雨已ニヤミタリケレバコノ雨量ハ午後二時以
後十時以前ニ降リタルモノナリ 而シテ少クトモ
其半ハ恐ラク午後八時一時一時万ノ降雨
量ナルベシ
325,6mmが、1時間で降ったのではなく、その半分が、午後8時前後に、降ったと理解しました。
その半分としても、1時間で、160mm。 想像を、絶します !!
その、雨量の被害で混乱していたのは、村上八郎さんの、文面を見れば解かると思います。
ですから、「翌朝、測リタリ」の、記述があります。28日の夜には、測定する状況にはなかった
と・・・思われます。
”さしも猛威を逞しうした雷雨も次第次第に弱まり午后十時頃には全くおさまり曇り空となった。
其時、途行く人が見花谷が全滅したと話して行くのを聞いたので ・・・・・”
”この時凡そ午後11時30分、風雨共に静穏に帰し天晴れ雲散じ片月微光を放ちて凄然たり”
”午後11時には、」新居浜平野を、月が不気味に照らしていた。”
と、言う記録が残っていますので、以後は天気は、急速に回復したと考えて良いと思います。
8月28日の、低気圧(台風)による雨は、愛媛・高知・徳島・香川・岡山・など進路に当たった各県で、
暴風を伴って大雨が降ったが、たまたま別子銅山が、最も強烈な雨量になったと思われます。
これは、現在でも、測定されていない、人の居ない山中で、この様な状況は起こっていると思います。
100年前、しかも、1000mを超える山の中で、地面を掘れば銅鉱石が、産出されるので、13,000人も住んでいた山中の集落に、
たまたま、被害が集中したと、 ・・・ 亡くなった方には、 不運 としか、申し上げられません。
新居浜町・惣開の記録だと思われる
8月29日 午前2時でも、烈風・雨量27,6mmとある。
別子銅山(小足谷)は、午後11時には、雨も止んで月も見えていた記録があるが、この観測表とは、合致しないが、
「廿九日午前二時ニ雨量アルハ廿八日午後十時以後ニ降リシ量ナリ」 とある。
4時間ごとに観測していたようです。
午後10時過ぎまで、猛烈な雨が降っていて、午後11時までに、急速に天気が回復したと思われます。
(例えば、20:00−20:30雨が降っていたなら、時間雨量50mmを超える事になります)