別子銅山
元禄4年(1691年)旧別子で、採鉱が開始され、昭和48年(1973年)の閉坑までの、280年余り
これを、数字で表しますと、
出鉱量 3,000万トン
産銅量 72万トン
坑道の、延長 700Km
最下低坑道 海面下 1,020m
一貫して「住友」の一企業の、経営の元に、採鉱されました。
これは、世界的に見ても、珍しいらしいです。
日本三大銅山(別子・足尾・小坂)の、一つに数えられています。
世界一の、産銅量を誇った時もありました。
明治になり、幕府から新政権に変わった時、危機を迎えましたが、
廣瀬宰平によって、危機を脱しました。
歴史と言うのは、その時々に、突然、英雄が現れるものです。
しかし、別子銅山は、すべて順風満帆とは、行かなかった様ですが、苦難の時代に、
それぞれの、解決できる人物が、出てきたことは、住友にも、新居浜にとっても、幸運でした。
歴史を見れば、必ず、政治とも絡んできます。
肝っ玉が据わった、人間が、歴史を動かしているような気がしてなりません。
別子銅山を見ていると、日本の縮図が見えてくるような気がします。
廣瀬宰平・伊庭貞剛・鷲尾勘解冶 ・・・・ 等 (気になる方は、検索して見てください)
”別子銅山を知りたい”と、本を読み出してそんなに時間はたっていませんが、
間違いなく言えることは、住友グループが、現在 日本の、大企業として存在していることも、
現在、工業都市として、「新居浜市」 が存在しているのも、
別子銅山から、掘り出した72万トンの、銅のおかげだと思います。
地面を掘れば、、銅が産出して、金になったのですから。
(銅鉱石から、銅を抽出するのですから、公害等、苦労は多かったようですが・・)
現代で言えば、アラブ諸国で、石油が取れなくなった時 ・・・
を、想像してください。
潮が引いたように、企業が撤退するでしょう。
その後を、考える人も居るでしょう。
新居浜には、居ました。 だから、今、新居浜は、破産都市にならず、存続しています。
現代の日本の、大企業であれ、中小企業であれ、苦難を無事乗り越えてきたから
現存している訳ですから、それぞれの企業歴史、それぞれの人々の歴史があり、
失敗を恐れず、努力して成功した企業が、生き残っているのは間違いないことです。