住友別子病院

 元禄4年(1961年)住友が、別子銅山を開抗しました。
やがて、別子の山中に、一万人規模の鉱山集落が出来上がります。
 山に穴を掘って、その中に入って銅鉱石を採るのですから、怪我も絶えなかったでしょう。
高温多湿の環境で、体調を崩す人もいたでしょう。
 会社としては、それらの人を治療する施設が必要となり、
明治16年、旧別子に、私立病院の設立願いを出し、診療を開始しました。
これが、住友別子病院の始まりでした。
  右上の、2階建てが、病院

  正面から(明治20年代)

 そして、明治32年8月28日、別子大水害が起こります。
壊滅的な打撃を受けた、旧別子から、採鉱部門を残して、精錬・その他を、新居浜へ移転しました。
それに伴い、病院本体も、新居郡金子村に移します。(別子山は、出張所になる)
 その2年後、新居郡金子村大字金子乙1594番地に新築移転します。
  明治34年

  2階を、増築(大正終り頃〜昭和初め)

 順調に病院事業も進展し増改築をしましたが、手狭になり、
昭和11年、新居郡金子字新田乙1334番地に新築移転します。
今でも、新居浜で、「病院前」と呼ばれている所です。
    


  昭和39年

 しかし、老朽化が目立ち始め、昭和41年、西の隣接地に、現在の病院を建設、現在に至っています。


 新居浜住友別子病院を、調べていると ・・・

 
 昭和55年発行の、写真集・明治・大正・昭和・新居浜の、P110の、写真です。
 「説明文は、大正15年頃の写真である」 とあります。   が、・・・

 上の、写真から、車を拡大

    410型ブルーバード(1963−1967)

  玄関前に止まっている車は、どう見ても、410・ブルーバードだと思います。
ピニンファリーナが、デザインした、独特の尻下がりの、イタルライン ?  私は、好きでは有りませんでした。
この後、登場した、510・ブルーバードの、スーパー・ソニックラインは、好きです。
当時の、一流のデザイナーが、作った物ですから、悪くはないと思いますが、好みの問題でしょう。
私を含めて、日本人には好まれなかったようで、売れ行きは低迷したと、記憶しています。
 写真を、良く見てみると、屋根の上に、行燈があります。ナンバーの色も、緑ナンバーのようです。
これは、タクシーでしょう。
そして、運転手が、片手を窓にかけて、お客さんを待っているように見えます。
住友別子病院は、昭和11年に、現在も、「病院前」と言われている所に、新築移転しています。
昭和15年の地図を見ると、ここは、”新居浜中学校”になっていた時期も有ったようです。
多分、戦後になるのでしょうが、それからは、現在に至るまで、住友関連会社の事務所になっているようです。
 これからは、私の想像ですが、新居浜駅、又は、新居浜港からタクシーで、乗ってきて、
ここに有る、住友関連会社に、出張に来た人を待っている所 ?ではないかと、思います。

 タクシーは、走行距離が多い為、長期間は使用しません。(10万Km/年 だから、5−6年の、使用期間でしょう)

     結論として、1963年(昭和38・発売)−−1970年初めの、写真だと思われます。


 活字で、本にして出版するのは、怖いと思いました。
私の、ページも、”ひらめき”で書いている部分も多々ありますが、気になる部分は、新しい情報があれば常に、訂正をしています。
もし、プリントしている方が、居られましたら、最新のページを確認していただけたらと、思います。