惣開の碑

  住友化学株式会社愛媛工場 歴史資料館

 昔は、華やかな所だったと思います

 住友化学は、別子銅山の銅鉱石を製錬するときに発生する亜硫酸ガスの問題を解決したいと願った住友が、苦心の末に鉱石を処理し
硫酸を改修する技術上の問題を克服して、大正2年(1913年)、過燐酸石灰の製造を目的に直営肥料事業として開始したのが始まりです。
 
 大正14年(1925年)、(株)住友肥料製造所として独立し。昭和9年(1934年)住友化学工業(株)になり、その後、
事業内容も肥料製造から総合化学工業へと大きく変貌を遂げ、平成16年(2004年) 現在の住友化学(株)に社名変更しました。
 このような変遷の中で、それぞれの役割を果たし終えたものは姿を消して行かざるを得ないのですが、できるだけそれらの資料を保存展示することにより、
諸先輩の苦労と喜びを感じとり、また、当社が歩んできた姿を少しでも多くの方々にご理解いただきたいと考え、この資料館を開設した次第です。
 
  なお、この建物は住友銀行新居浜支店として明治34年に建築され、昭和33年まで使用されていた由緒ある建物であり、それを一部改修のうえ、利用したものです。
 ごゆっくり御覧いただければ幸いと存じます。
  (歴史資料館・パンフレットより抜粋)


 
 大きさが分かるように、横に立ってみました。 新居浜発祥の原点の様な存在です。
以前は、工場の中にあって、一般の方には、余りなじみのない物だったのですが、現在は、ここに移設されています。


 

 「惣開の記」の拡大です。フランケンシュタイン状態ですが、資料館の中に、完成時(多分?)の、拓本がありました。
別子開抗200年の記念として、1つは、皇居二重橋前の、「楠正成御馬上の銅像」。そして、この「惣開の碑」が製作されました。
文章は、広瀬宰平、書は、明治維新の三舟(海舟・鉄舟・泥舟)の一人である、高橋泥舟である。
 なぜ、現在この様な状態になっているのか、図書館で調べてみました。
昭和39年5月15日に、高橋学蔵と言う方の文章がありました。

「この文は御影石の碑に記して別子鉱業所電話交換所の西、元住友配給所の東側倉庫のある位置に小公園を設け、
この碑を建ててあったが、別子鉱業所本館建設の際人夫が誤って倒し破損したので、孤包にしてそのまま庶務課の
倉庫に保存してあって忘れられかけていた。偶々元総理事 伊庭貞剛の息 伊庭六郎氏(住友本社)が、
別子250年祭計画のため来浜。その幼児をすごされた今は惣開警部補派出所となっている当時の所長 伊庭貞剛氏の
旧舎宅の屋内隅々まで懐かしがられ、柱など手でなで廻された。感慨無量の様に見受けた。
更にその舎宅の道をへだてて前にあった筈の惣開の碑がないので尋ねられた。
右様の次第が判り、時の所長 三村起一氏に復興するよう進言され、鉱業所本館前庭に修復再現され今日に至ったのである」

また、新居浜市が一寒村から愛媛県第2位の都市に発展した基となったのである。
住友の記念物のみでなく新居浜市の記念物として永く保存する必要があると愚考する。
別子鉱業所が桟橋通りに移動新築し、」その跡の住友化学の新工場が建設されるにあたり、一言希望を申上ぐ。   とも、あった。

 数奇な運命をたどった 「惣開の碑」が、現在の地に安住してくれることを、願うのみである。


   

 内部です。写真撮影OKとのことで、いろいろなパネル等を撮らせていただきました。
個人的には、2階に展示していた、昔の新居浜の写真が、良かったです。

 開館時間  午前9時〜午後4時
 休館日    毎週土・日曜日・祝日    (現役で仕事をしている方には、訪れにくいかも)
 愛媛県新居浜市惣開町 5番1号
 TEL 0897−37−1711