明治24年 石ヶ山丈 −− 端出場 間に、索道が出来る。

 明治26年 上部鉄道 完成

   と言う事は、明治25年は、角石原 −− 石ヶ山丈間は、牛車のみで運んでいた事になります。


明治25年 上荷と下荷は、下荷が多く、7,968,495貫 = 29,882t となります。
   29,882t ÷ 365日 = 81,9t/日
                     81,9t ÷ 500Kg(牛車1頭) = 164頭分 の下荷になります。

これを、角石原ーー>石ヶ山丈(5,5Km)を運んでいたのです。
1日12時間、稼動してたとすると、12×60分=720分 ÷ 164頭 = 約4,4分に1回、下荷の牛車が通っていたことになります。
上荷は、その三分の一ですが、空荷でも、牛車は戻ってくるはずですから、 ×2倍の、牛車の動きがあったことでしょう。

 つまり、2.2分に一度、もし工事をしてる区間があれば、通過する計算になります。
工事をしていて、牛車が見える前後30秒位は仕事にならないでしょうから、
牛車道を、改良して上部鉄道を作るのは、難しいと思います。 (無理だと思います)


 上部鉄道は、明治25年5月4日着工・明治26年8月27日竣工 (工費 122,971円)とある。
1年余りで、工事を成し遂げる為には、工区をいくつかに分割して進めたのだろう。
急峻な山に、現在もしっかりと残っている石垣を作ったのは驚異である。
上部鉄道の工事事務所は、立川にあったと記録が残っているが、毎日、上部鉄道まで通っていたのだろうか ?
       (下部鉄道の工事事務所は、山根にあったらしい。)
石ヶ山丈の社宅を、先に建てて飯場としたのか? 角石原から、通っていたのか ?
どれ位の人数が、従事していたのか ? これらも、資料として、一般には、出てない。


 実際に、上部鉄道を歩いていると、2−30m上のほうに、石積みが、所々に見えます。
途中、2ヶ所、西赤石山への、登山道がありますので、そこを上ってみると、牛車道だと思う平らな道を見つけることが出来ます。
しかし、上部鉄道跡に比べ、通る人もいない様で、草木が生い茂り、歩こうという気にはなりませんが、
鉄道の上に別に、牛車道があったのは間違いないと思います。

                                     参考ページ(絵葉書から、考察しています)