上部鉄道の、被害は ?

明治32年 8月28日 別子・大水害時の、報告


 災害ノ概況

 八月廿八日ノ状況ハ、茲ニ贅言スルヲ要セスト雖トモ 当課所管事業上被害及従業者ノ
罹災応急運輸ノ概況等ヲ列記セン

                        と始まり、

上部鉄道   
          地獄谷   壱ヶ所
          千両滝   壱ヶ所
          豆尻     壱ヶ所
          岩屋谷   壱ヶ所
          七釜谷   壱ヶ所
          裏谷     壱ヶ所
          大地形   三ヶ所

                        とあり大量の雨が、鉄橋のあった谷に集中したのだろう。

上部鉄道の、被害写真は、まだ見つけていない。



下部鉄道の被害
山田川コルベルト両側・松ノ鼻堤防・松ノ鼻踏切・山根宮ノ前石垣・除ノ裏石垣・物言獄石垣・桧尾暗橋・八ヶ獄山明とある。
特に、内宮神社の上部一帯がひどかった様である。
下部鉄道は、各所で道床が洗われ、土石が埋没し復旧に手間どった.
10月18日試運転、10月20日から運転開始。
その間 物資等は、人夫により、運んだようである。

  
                                 (下部鉄道は、線路が宙ぶらりんになる箇所もあったが、応急復旧を急いだ。)

 下部鉄道山根端出場間ハ被害ノ大ナルヲ以テ、復旧工事ニ数ヲ要シ、運輸上不利ナルヲ以テ
足場工事ヲ施工スルニ決シ 設計部員香西文雄担当九月廿七日工事ヲ起シ 十月十八日成工
汽車試運転ヲ為セシニ良結果ヲ得タルヲ以テ十月二十日運搬ヲ開始セリ


 とあり、被害が大きすぎて、運輸課だけでは、対処できずに、設計課に応援を求めたのだと思う。
その答えが、一刻も早く復旧する為の、仮足場だったのだろう。


 上部鉄道ハ復旧工事甚シク困難ナラス 従テ復旧ヲ長時間ヲ要セサルヲ以テ 直ニ本工事ヲ為スニ決シ
土木課管理ノ下ニ九月二十六日着手、十月十八日竣工、汽車試運転ヲ為セシニ好結果ヲ得タルヲ以テ
二十日ヨリ運輸ヲ開始セリ 汽車不通ノ間ハ人夫ヲ以テ運搬シ其数一日平均七八十人ナリシ

 上部鉄道の方が、「割合堅牢な地盤の上に道床があり、東方 石ヶ山丈の諸谷より流下した土砂岩石を、
西側 床下へ落としただけで事足りるので、復旧工事甚だしく困難ならず」 と記している。
10月20日に、下部鉄道と歩調を合わせ、運転開始できたようである。 
 復旧するまでの間、人夫により食料等を運んだ様である。

江見水陰の、「星」の第7報に、明治32年 9月 3日の、上部鉄道の様子が書かれている。


 災害後の、混乱振りが伺われる。
石ヶ山丈ーー端出場 の、索道も止まっていたので、人夫により、物資運搬が行なわれていた様子も分かる。