始発駅と、終着駅
始発駅は、石ヶ山丈停車場 ? それとも、角石原停車場 ?
普通に考えると、
★ 東京に近いほうでしょうか ?
★ 標高の低いほうでしょうか ?
★ この上部鉄道は、銅鉱石を運ぶ為に作られた鉄道だから、別子銅山に近いほうでしょうか ?
想像するだけでも、楽しいと思います。
私は、石ヶ山丈停車場が、始発駅だと思っています。
根拠として、
その1・ 停車場の規模が、大きい。
その2・ 機関車は、石ヶ山丈から、角石原へ向かって走っている写真しか残っていない。(帰りは、バックだった?)
その3・ 第1岩井谷と、第2岩井谷があるが、石ヶ山丈寄りが、第1である。次に、第2がある。
その4・ 石ヶ山丈停車場は、機関庫・客車庫・駅務室・事務室・倉庫があり、蒸気機関車の整備もしていたようである。
角石原停車場には、荷物を積んで行って、帰りは鉱石を積んで、引き返してくる折り返し駅だった。
ただ、人口は、旧別子銅山側は、13,000人。新居浜浦は、明治21年新居浜村になりますが、4,300人でした。
しかし、乗客は多くなかったと思います。(鉱山鉄道として、作られました。人を運ぶ目的は、ほとんど考えてなかった)
別子鉱山鉄道史には、竣工当時、上部鉄道には、機関車2、貨車10、客車1 の、記録が残っています。
鉱山の人々は、旧別子内で、完結できる生活をしていました。明治32年の大水害までは、伊予屋という、現代の百貨店に近いものまであり、
松山から、琴平(金比羅)までで、一番の品揃えを誇っていた店だった様で、旧別子内で繁栄を謳歌していたようです。
[新居浜村から、わざわざ、山の上まで、婚礼用品を買いに来ていた。]
と言う、話も残されています。
ですから、旧別子銅山から、外部に、出て行く必要も無かったでしょう。
銅が取れて外部に売り、旧別子銅山は、コロニーと言える地域だったでしょう。
以上から、石ヶ山丈停車場を、始発駅と、考えて良いとます。
想像してみると、石ヶ山丈停車場は、打除(端出場)からの、索道で上げられたた荷物があり、索道で降ろされる荷物があり、
活気に満ちた所だったように、感じます。
(山の斜面に作られた、石ヶ山丈停車場跡に立って、目を閉じてみれば、感じます。 これは、私だけでは、ないと思います。
駅から下を見れば、索道があり、その先に下部鉄道が走っているのを、見ることが出来たでしょう。
駅長は、それらの運行状況を、見ながら、上部鉄道の運行を管理する重要な位置に居たと思います。)
明治32年の、考課状(教務報告書)では、上部鉄道従業者は、216名とあります。
タイムマシンが有れば、行って見たいです。 ドラエモン つれてって !!!