石ヶ山丈・索道に、ついて
(住友別子鉱山史・別巻より)
明治24年に出来た、複式索道は、重力差にて動いていて、下荷4に対し、上荷1 が、可能であると書いてある。
つまり、上に運ぶ荷物が、1トンあるならば、下に降ろす荷物が4トン必要だと言うこと。
山の上にある、別子銅山が、活況になり、旧別子・コロニー内の、経済活動が豊かになっていくと、必要とする資材が増えて行きます。
上荷: 米穀・石炭・骸炭(コークス)・木材・煉瓦等とあります。
明治27年 東平の第3通洞開さく 着手 −− 明治35年開通
と言うことは、打除ーー>石ヶ山丈停車場へ、煉瓦が上げられ、上部鉄道で、一本松停車場まで運ばれて、
東平の、工事現場に、一本松ーー>東平の索道で運び入れたと思われます。
最近、 ”東洋のマチュピチュ”と、話題になっている、東平の貯鉱庫跡や、索道場跡に残っている遺跡の煉瓦は
こうして、運ばれてきたのでしょう。
旧・別子内でも、生活が豊かになってきたと思われ、米の消費も増えてきたと思われます。
下荷: 焼鉱・粗銅 とあります。
増えてきていますが、生活が豊かになっている以上には、追いついていません。
”遠町深鋪(えんちょうふかじき)”と言う、難題に、木炭に代わり、骸炭(コークス)を、使用することになり、
ますます、上荷が増え、複式索道の運行が難しくなって来ます。
(下ろす、荷物の4分の1の重量しか、持ち上げることが出来ない宿命)
そこで、救世主となる、単索道が、明治31年に、作られることになります。
端出場の、打除に火力発電所をつくり、その電気で石ヶ山丈のモーターを動かします。
現在の、スキー場のリフトの様な構造だったと思われます。
重力だけで動く、複式索道と違い、付帯設備が必要で、維持管理も大変だったと思います。
明治32年8月28日の、別子大水害の時は、火力発電所が水害にあって、修理に手間取った記録があります。
便利さを追いかけるより、シンプルな機械の方が、非常時には役に立つことが多いと思います。
これは、現代の社会でも同じだと思います。
しかし、何はともあれ、複索道の能力は、上の資料からでは、
下荷 800万貫÷4=200万貫 の、上荷の、能力しかなかったでしょう。
そうすると、上荷 500万貫ー200万貫=300万貫は、単索道の、電力を使い持ち上げたと推論する事が出来ます。
住友別子鉱山史より
しかし、使われている、下荷800万貫・上荷500万貫は、明治 何年代の、数字でしょうか ?
上の表から、見ると、合致する年代が特定できませんが、明治25−27年位を見ているのかもしれません。
同じ本の中でも、矛盾があるのが、過去の歴史の資料かもしれません。
わずか、100年位前でも、これだから、”卑弥呼”の時代なんて大金を注ぎ込んでも解らないだろうナ・・・
ま・・・ これが、歴史研究家の、ロマンなんでしょう。