この写真は、新土橋駅です。 上りホームに、駅舎が建っています。
何時、移転したかは、どこにも記録が有りません。
国土地理院の地図を見てみると、
昭和28年(旧駅) −−> 昭和43年(新駅)になっています。
そして、昭和25年5月に、電化されています。
別子鉱山鉄道略史を見ていると、昭和34年1月。 「黒石・土橋両駅廃止。ダイヤを改正して運転効率引き上げ」と書いています。
電化した架線がありませんので、昭和24年12月の、電化着工前の写真でしょう。
もう一つ。国土地理院の地図は最新とは限りません。
昭和28年(旧駅)なのですが、明治39年測量。昭和3年修正。昭和8年部分修正。とあります。
という事は、この写真は、昭和8年 〜〜昭和24年に絞られてくると思います。
私が知っている限りでは、土橋停車場の写真は、この2枚です。
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別子鉱山鉄道は、上部鉄道(5.532m)と下部鉄道(10.461m)が建設されました。
建設工事事務所は、上部鉄道は、立川に、下部鉄道は、土橋に設けられました。
下部鉄道の工事事務所は、中間のすれ違い駅となる土橋に、設けられたのは納得です。
明治41年
別子鉱山鉄道が出来てから15年後の地図ですが、海岸にある新居浜村と、惣開周辺を除いて
田と畑です。旧国道沿いの「土橋」あたりは、家が(店が)集まっているようです。
惣開と、端出場の中間地点で、工事の監督にも眼が届き、買い物にも便利な土橋に工事事務所を置いたのは、
当然の成り行きだったのでしょう。
昭和4年から30年まで、専用鉄道から一般貨客の運送にも開放し地方鉄道として運用されていました。
乗降客と取扱荷物の増大により、土橋駅周辺は賑やかとなり、昭和8年からは、
駅前広場で夜市が立つようになった。
地下道は、山根駅に在った。
話をしていると、土橋駅にも在ったらしい。
上の土橋駅の、写真の左、地下道入口と言う事。線路下を通り、右の柵の所に出てきたらしい。
1時間に2本程度の、運行だったようだが、地下道は、はたして必要だったのだろうか ?
昭和41年の、列車運行ダイヤグラムをみると、すれ違い駅は、土橋ではなく、山根駅に移ったようだ。
昭和42年の鉄道ファンの記事には、
「国道11号線をオーバークロスすると土橋駅。これは廃駅で相当荒れてはいるが、
上屋もホームも残っている。もちろん通過。すぐ旧国道と平面交差し、さらに進むと現在
ただ一つの中間駅に着く。ここは海抜61,6m(星越は5,53m)だ。」 とあります。
いつ、変わったのかの資料はありません。
大正14年前後に、575戸の川口新田社宅・70戸の梅林社宅が出来、昭和5年別子調度山根販売所(のちの、別子生協)が出来、
昭和6年別子病院・山根分院が出来、山根地区が発展して、住友は、山根駅を重視しかけたのだろう。