「もう一度結婚するつもりなんかは無いんだけど、私が死ぬ瞬間に、私の手を握ってくれる人が欲しいなとは思うの」
目の前で、焼酎を飲んでいた男が、ん?と顔を上げた。
「勿論、誰でもいいてわけにはいかないけどね」と言葉を結んで、私も一口飲んだ。
焼酎独特の濃い香りが眉間のあたりに広がった。
男は伏し目がちに、ほんの数秒ロックグラスを睨んでからこう言った。
「僕が手を握ってあげます」私はもう一口飲みつつ、げらげら笑いながらカウンターの女将に向かって大声で言った。
「ママ、焼酎ロックお代わりね!」

 人が死ぬという当たり前の事実を、本当に知ったのは、二十三歳の時だった。
父は末期の胃癌だと診断されてから、たった三ヶ月の闘病生活でこの世を去った。
目の前でじわじわと死んでいく父を、私は毎日毎日傍らでじっと見詰めていた。
死んだら人はどうなるんだろうと思った。
輪廻だ復活だという信仰が語る来世などは、全く信じられなかった。
 二度目の手術の後、父は急速に体力を失っていった。
亡くなる前の数日は、幻聴幻覚になやまされているようだった。
「戸を閉めてくれ、砂が来る」「なんでこんな小さな虫がたくさん飛んでるんだ」
そんな父に私たちは何もしてあげられなかった。母と二人、しっかりとその手を握ってあげることしか出来なかった。

 「私ね、風葬っていいなと思っているの。空気の乾燥した鳥なんか飛んでこれないほど高い高い山のてっぺんの、
真空みたいに真っ青な空の下で、長い年月かけて自分の躰が塵になっていく感じ」
男は黙って焼酎を飲み続けていた。時折、氷の欠片がコロロンと音を立てた。

 「同じことを僕も思ったことがあります。別子銅山のある場所に「蘭塔場」というところがあります。
山で亡くなった人たちの墓場です。知っていますか」 私は肯いた。蘭塔場は、取材で一度訪れた場所だった。
「山歩きの仲間たちの中には、あの場所の雰囲気を怖がる人もいますが、僕は、あの宙に浮かんだ石の砦のような墓場を、
尾根の上から初めて眺めた時、ここで風を聴きながら朽ちていくのもいいなと思いました。」
男は一気語り、またグッと飲んだ。
今度は私のグラスの氷が小さく鳴った。

 ふっと、この男ならほんとうに私の手を握ってくれるかもしれないと思った。
蘭塔場の風をこんなふうに聴くことができる男なら、それもいいかもしれないと思った。


     風葬や夏空は真空の青   いつき