小新高橋
我が家の、屋根裏から、絵葉書が入った箱が出てきました。
その中の、この1枚が、新居浜の昔を調べ始める、きっかけになりました。
「小新高橋」 なんて、知らない。
「新高橋」は、毎日通っているけど ・・・ いったい、どこにあったのだろう ?
で ・ 調査開始 !!
上の写真の看板部分のアップ
この時代に、英語で書かれています。現代の、公共工事でも、先ず無い事でしょう。
この時代の人で、この英語が読めた人。 居たのか ナ !!
「昭和通り」が、出来たのは、昭和6年。
新高橋が、出来たのが、大正14年 8月。
新高橋の、開通式
お祭り騒ぎだったと思います。
という事は、同時期に、小新高橋も、工事をしていたと思われます。
新高橋が、先に出来てしまったから、昭和通りは、この橋を目指して作らざるをえなかった思われます。
最初の、絵葉書を見ると、左から右へと ”小新高橋橋脚打込作業”と、書かれています。
なんと、モダンな !! 英語と同じ。 現代と同じ。
大正デモクラシーの、影響でしょうか。
1953年(昭和28年)の地図を、見つけました。確かに、小新高橋が、あります。
この橋のたもとに、明治32年 8月 28日の、別子銅山時化の時に流れ着いた遺体の慰霊碑があります。
昔は、ここが、国領川の、堤防があったところでした。
新高橋は、新居浜町と、高津村を結ぶ橋 −−> 「新高橋」 と、名付けられたようです。
昭和12年11月3日 新居浜町・」高津村・金子村が合併し、新居浜市となります。
初代市長は、白石誉二郎(タカジロウ) 人口32,254人
初代・新高橋の、工事風景です。
交通量増加により、昭和29年10月に、拡幅されました。
私が、小学校の頃には、橋脚が、2つ在った事を覚えています。(つまり、2倍幅に、なった)
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この新高橋は、大正14年8月、代議士故 小野寅吉氏の尽力によるものであり、当時豪華なものであった。
新居浜と高津を結ぶので、「新高橋」と名づけられた。
その後、交通量が急激に増加し事故が多発したため、市内松ノ木の住人佐藤誠治氏が身の不自由をかえりみず、寝食を忘れ、
関係方面に橋の幅拡張を陳情した。結果ついに、昭和29年10月に工事に、着手した。
佐藤氏は82歳の生涯をとじられた。
かくして33年3月全橋を完成し、市民の不安が一掃された。その顕彰碑である。 (ふるさと高津 より)
平成6年10月に、現在の新しい「新高橋」になりましたが、この顕彰碑は、どこに行ったのでしょうか ?
元塚にあった、共存橋&共栄橋の、欄干は一時、行方不明になっていたのですが、発見され、
現在、広瀬公園の、一角に保存されています。
この、顕彰碑も、どこかに、眠っているかと思います。
橋は、新しくなっても、歴史は残っています。先人の偉業を、後世に残したいものです。
現在、別子銅山が、脚光をあびていますが、新居浜の小さいかもしれませんが、このような歴史も残したいものです。