「 星 」 明治33年 12月 発表 (10回シリーズ)
第 1報 (明治32年 9月 1日 尾ノ道 濱吉楼にて認む)
第 2報 ( 9月 1日 木津川丸にて認む)
第 3報 ( 9月 2日 新居濱にて認む)
第 4報 ( 仝 )
第 5報 ( 仝 )
第 6報 ( 仝 )
第 7報 ( 9月 3日 小足谷倶楽部にて認む)
第 8報 ( 9月 4日 新居濱にて認む)
第 9報 ( 仝 )
第10報 ( 9月 5日 新居濱にて認む)
”別子銅山 変災視察録” として、10報まで、あります。
その、冒頭の部分を、紹介します。
これを書いた、「江見水陰」は、明治 2年 8月 2日生まれ
と言う事は、明治32年 8月 28日の、銅山時化の時は、30才ということになります。
文筆活動をしていたのですが、明治31年 神戸新聞社に、記者として転職。
30才という若さと、入社2年目の、やる気が十二分に、あった時の取材活動だったように感じます。
取材した事を、緊迫感のある記事に出来たのは、文筆活動をしていた 「江見水陰」 の成せる業でしょう。
現代と違って、8月28日夜に、起こった災害が、「31日の午後に,神戸に達した」 とあります。
それを聞いて、31日の、午後11時40分発の列車に、飛び乗り新居浜に向かったようです。
昔の情報伝達の、タイムラグを感じます。
この銅山時化で、513名もの、尊い命が一瞬にして失われました。
1985年 8月12日の、日航機墜落事故では、520名もの尊い命が奪われました。
が、次の日には、取材のヘリコプターが多数飛んでいて、全国に知らされていました。
明治・大正・昭和・平成・・・ 時代は、進歩しているのだと感じます。