明治32年頃の、通信事情
伊庭貞剛より
当時、最先端の技術を取り込んでいた別子銅山である。
明治24年6月 「新居浜・別子間に、直通電話架設」 とある。
1871年(明治4年) ロシアのウラジオストックから、長崎に海底ケーブルが敷設され、
シベリア経由でヨーロッパまで繋がっており、大西洋を渡り、北米との電信も可能とした。
1880年頃には、日本の通信網が完成。
1890年(明治23)頃には、全国の県庁所在地を網羅するほどに電信網は、広がった。 (NTT東日本)
と言う事は、明治32年の大水害時には、別子に電話が有ったと言うことです。
でも、これだけの暴風雨で有線の電話線が切断された事は、うかがい知れます。
上の文章からは、暁の新居浜・分店に、玉井・岩橋2名が、知らせたのでしょう。(29日・朝)
でも、大阪の住友本店に、連絡が着いたのは、それから24時間以上掛かっています。
なぜ ??