明治32年の、通信事情
伊庭貞剛より
明治32年、電報も、電話も、存在していたと思われますが、「28日の夜の大水害の情報が、大阪に伝わったのは、30日 午前10時だった。」
なぜ、そんなに時間がかかったのでしょうか ?
もう一点。 「暗黒に狂う風雨の中を、峯を越え、谷を渉って払暁新居浜の分店に急を報じたのは、警備員玉井某、銀行出張員岩橋某の二人であった」とありますが、
この文章に、疑問が出てきました。 後ほど、険証してみましょう。
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村上八郎さんが、益友に投稿した文からの、抜粋です。
・・・
「午後10時頃には、全くおさまり曇り空となった。」 とあります。 ハイスピード台風だったと思います。
「午後11時には、」雨はすっかり上がり、月が不気味に被災地を照らしていた。」と、書いている本も有ります。
翌日昼頃まで、端出場ーー旧別子間の、電話は、通じなかったようです。
端出場ーー惣開間は、大丈夫だったかは、判りません。
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高山にある別子の災害は、毎年のように起きていた。 ”又かっ”位に思っていたのかもしれない。 それ位、別子は過酷な気象条件であったのだろう。
処が、M32・8/28は、別格だった。 この後、9/20にも、暴風雨になっています。
「29日から何度か、別子の山が水害に襲われたらしいという電報が来ていたが、 ・・・
何処から、打たれた電報かは、不明ですが、電報が機能していた事は、ここから読み取れます。