明治32年の、通信事情


               別子                                                   新居浜
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
8/28    早朝から黒い雲が濃く低く厚く、別子の山を包んでいた。                 午前十時 雨頻リ降リタレドモ風起ラス
         午前8時半頃から小雨になり、次第に大雨になる
         夕方にはもの凄い豪雨になって雷鳴と暴風まで加わる。                 午後三時 辰巳ヨリ軟風吹ク、雨益々甚敷
                                                             午後六時四十分ヨリ我然風強ク

                                                             午後七時三十分 電気閃キ雷鳴■ニ聞エテ暴風トナリ
        午後6時過ぎより、 今迄経験の無い猛烈な大雷豪雨
                                                              淒マシク漸次ニ風位正卯ヨリ丑寅ニ廻レドモ弥逞シク
        午後8時−9時頃が、最も激烈で家の内にいても危うく
                                                             午後九時四十分 戌亥ノ風位ト変シテ雨モ少シク緩ニ降レリ
        午後10時頃には全くおさまり曇り空となった。

                                                             午後九時 俄然洪水辰巳及未申ノ両方面ヨリ来襲シ字東町、東須賀、中屋敷、西前町、中町、
                                                                    西町ヘ侵入シ、家屋座上ニ氾濫シ溢レテ海岸堤防ヨリ海ニ注ク
                                                                    尋常小学校以東ノ海岸一面ハ恰モ広巾ノ瀧ノ如シ


 


 この様な、状況下で、下記の文章は違和感を持ちます。
 
「暗黒に狂う風雨の中を、峯を越え、谷を渉って払暁新居浜の分店に急を報じたのは、警備員玉井某、銀行出張員岩橋某の二人であった」


(以下、"あゝ悲惨であった 別子山の水禍” 村上八郎より抜粋)
 さしも、猛威を逞しうした雷雨も次第次第に弱まり午後10時頃には全くおさまり曇り空となった。
其時、途行く人が見花谷が全滅したと話して行くのを聞いたので早速仕度を整え見花谷方面へ出掛けることにした。

山では一番良い筈の道が、谷の様に崩れ未だ水が流れている中を、提灯を倚りに・・・平素なら15分位で行ける処を1時間近くも掛かって・・・

勘場へ来た。各課から已に多数の人が来ていたが、電話が不通になって居て最初は山内は勿論、新居浜方面の情報も皆目不明であったが、
山内丈けは追々情報が這り、中でも小足谷は見花谷に次ぐ被害らしく ・・・

十二時頃副支配人小池鶴三様が途中の困難を押して、書生を連れて出頭されたので一同心強く感じた。
直に被害の概況を特使で、新居浜へ知らせた。


 この文章の方が、正確だと思います。
この時の特使が、玉井・岩橋だったのではないかと。
決して、暗黒に狂う風雨の中を新居浜に行ったのでは無く、風雨が収まって状況を把握した上で、新居浜の分店に知らせたのでしょう。
小説には、この様な所が多々見受けられます。
写真と、地図は、真実が隠れています。何度も見直すと良いと思います。
山村文化 9号から始まる「写真は語る」が、面白いです。

  目出度待ち(M15年頃) 左が、見花谷

  見花谷 (平常時でも、山の上から崩れそうである)