エピソード
かつてわが国鉄道技術界の、泰斗として知られた某博士の子息が、別子銅山詰となって赴任せむとした際、
父なる博士の餞別の辞に、
「別子に行くのはまことに結構なことだが、お前に心得のために言っておく ・・・・」
子息は何事かと畏まって聴くと、博士は、
「別子へ行っても、命を大事と思えば、くれぐれも上部鉄道だけには乗るな。」
と、諭されたという。 (別子開抗250年史話)
住友別子鉱山史にも、同じ話が出ているし、別子銅山関連の本でもこれから、引用しているのだろう。
上記の話が、エピソードとして、書かれている。
しかし、某博士とは、誰なのか? 子息とは、誰なのか?
捜しているのだが、どの本にも書いていない。
上部鉄道は、標高835mの「石ヶ山丈停車場」から、標高1100mの「角石原停車場」まで、
最大傾斜18分の1.最小曲線半径 50呎(1呎フィート=約30,48cm)
全長5532mの中に、橋梁が22箇所そして、カーブが112箇所。
(明治十三年の頃開通せる車道の下方に當り、屈曲百三十三回におよぶ嶮峻の岨路であった)・・別子開抗250年史話
(112と133ヶ所と数字は多少異なるが、平均 50mに1回カーブがある計算になる)
運搬物資は、鉱石に、食料米。
周りに民家等はないから、乗客は、鉱山の従業員以外は、まず絶無であったろうから、
少々の、危険や故障くらいは問題とせぬ相当物凄いものであった。
と、書かれている。
別子開抗250年史話は、昭和16年発刊である。
上部鉄道が、廃線(明治44年)になって、30年が経っている。
この凄かった上部鉄道の話に”尾ひれ”がついて、エピソードとなった可能性もある。