疑問 ?

 住友別子鉱山史(平成3年発行)に、第一通洞について、以下の記述がある。

「立川側からの、本鎚は、将来の停車場位置を考えて柳谷か葡萄谷かの選定に時間を要し、
翌十六年十月葡萄谷(角石原)から起工し、その総延長は三三七十尺(約1021m)であったが、
すでに別子南口は、代々抗利用のため、坑内三十六番受口までは開さく済みであったから、
実質二二七二尺(約682m)を掘り抜けばよかった。」


                                                                        別子鉱山鉄道略史より、加工


 ここで、疑問が出てきた。「柳谷」か、「葡萄谷」かの、選定に時間を要し ・・・ 
翌16年10月 葡萄谷(角石原)から、起工し ・・・ とあるが、


 葡萄谷は、角石原から、400mも先にあり、上柳谷から起工したのではないのか ?
それとも、地図の、葡萄谷と、上柳谷が、間違っているのか ?

 昭和16年発行の「別子開抗250年史話」には、具体的な地名の記述はなく
”16年10月、その竣工を急いで、さらに峰の北側、立川村角石原より東南に向つて本鎚の工を起した”
という事は、50年の間に、なにか資料を発見してこの様な記述をしたのかもしれない。

 別子鉱山鉄道略史(別子銅山記念館・昭和53年3月発行)から、30年余り経っていて
この地図を元に、上部鉄道には、現在の谷の名前の看板が付けられているのだと想像する。
もし、地図が間違っていても、30年間、登山者に馴染んだ名前を変えるのは難しい。
もし、住友300年史が、間違っているなら、編纂の時、何を根拠にこの文章になったか、知りたい。

 どちらが間違っているのか、難しいだろうが、もう少し資料を探して見たい。
どなたか、ご存知の方が居れば、メールいただけると幸いです。