牛車道 と、上部鉄道
ある本には、牛車道を改良して上部鉄道を作ったと書いていました。
本当に、そうだったのだろうかと、調べて見る事にした。
住友が発行した「住友250年史」(昭和16年発行)を見つけた。
明治26年に、上部鉄道が完成しているから、48年後の発刊の本である。
当時、作業にあたっていた、20歳の方が 68歳
中堅どころの、30歳の方なら78歳
生き証人として、存在価値があるときに出版された本です。
そこには、 「牛車道の、下部に作られた」と 書かれています。
しかし、1年余りでこの山岳地帯にこの様な、上下とも石垣に囲まれた線路道を作れたのでしょうか ?
現在、上部鉄道跡を歩くと、立派な石積みが残っています。
100年経った今、一部崩れて居る所もありますが、「昔の職人は、良い仕事をしていますねー !!」
私、個人的には、石ヶ山丈停車場が、雰囲気も残っていて、終点(始発駅?)らしく予想以上の規模に驚きます。
ここの、索道場は、下から見ると石積みも素晴らしく、東平の貯鉱庫に匹敵する産業遺産だと思っています。
ただ、アクセスが大変。 でもこれが、皮肉な事に、昔の面影を強く残す要因でしょう。
左が、明治30年ごろの、石ヶ山丈停車場の、北側。右に、索道場が見える。 カラー写真は、現在。索道場の石積みもしっかり残っている。中央に、同行した友人が写っているので、大きさが分ると思う。
時間と、体力があれば、行ってみる価値はあります。
牛車は、どれ位の荷物を運べたのでしょう。
ヒントは、下の3−37表でした。
広瀬宰平は、牛車の採用に際して、近村の農耕牛車が運搬の実用に適さないので
故郷の大津ー京都間で米穀の輸送に使役している近江牛が温厚で力強いと発案して、
用具一式と共に購入させた。
14年当時、18頭が運搬に従事しており、・・・・ と、ある。
14年当時とあるから、13年の実績を参考にする。
上荷の帰りには、下荷を積んで帰ります。
多い方をとって、
上荷910,012貫 = 3,412t ÷365日 = 9,3t /1日となります。
9、348Kg ÷ 18頭 =519Kg と計算しました。
つまり、牛車1頭当たり 約500Kgを運んでいたと思います。
軽トラが、350Kg積みですから、それよりも少し多い量だったと思います。
広瀬歴史記念館では、 開抗以来 中持ち 40Kg 俵 1個
明治13年〜 牛車 340Kg
俵 8,5個
明治26年〜 鉄道 20t 俵 500個 として、展示していました。
今回は、最大値として、仮定しますので、500Kgとします。出抗量が、少ない時は、340Kgあるいは、それなり ?かとも、思います。