索道について

角石原ー立川間に、索道を敷設しようという案が、
住友別子鉱山史に、関連記事が、ありましたので、紹介しておきます。

 明治16年10月 桑原技師は、「別子銅山運搬論」のなかで、今後の輸送量増加を考えると

「牛 千頭ヲ用ユルモ、到底吾営業上ニ満足ヲ与ル事、能ハサルニ至ル」として、

第一通洞北口(角石原)から立川までは高架索道(カーリントン氏鋼縄路=ロープーウェイ)、
立川から新居浜までは鉄道(ドコーピル氏鉄道)を敷設することを提案した。
 その後、別子職員の一部からもこれを発展継承して、角石原ー端出場間を、
鉄道と索道で連絡しようとする意見が出された。

 とあります。  しかし、当時の技術の未熟さか? 角石原ー立川間の、索道は、見送られた。


 対抗案として、明治20年11月13日に、土木課長・児島芳次郎は、運搬路と、探鉱と、通気を兼ねて
第二通洞を開さくするように広瀬別子支配人に上申した、ともある。
児島案も、間違っているわけではない。児島が、新居浜・立川移転構想「を主張したのは、
当時の別子山内諸工場が散在していて極めて非効率であった事。別子銅山が海抜1.200m余りの山岳地形で、

「一朝暴風雨ノ災害ヲ蒙ル事アラハ、工場ハ勿論、細民ノ惨状実ニ言語ニ尽シ難」 とある、

 これは、明治32年 8月28日の、別子大水害で、現実となるのだが、
当面と、将来を考えて、両意見とも採用され、鉱山鉄道と、第二通洞計画は同時進行することになった。
これも、別子銅山としては、良い結果となった。

 児島案の第二通洞は、明治21年10月 1日 立川山村 字 中之橋(東平・辷坂)からの許可が下りたが、
諸事情により、明治22年 7月 8日に、一時中断された。
                         (削岩機導入遅れ、石質堅硬、換気の悪化 等)

 その後、明治22年 9月27日 寛永谷からの許可が下り、11月再び第二通洞として開さく開始。
ところが、明治25年 5月30日、前山下の溜水に到達。激しい涌水で、8月に一時中断。
これも、再び、未完成に終わる。
 その間に、坑道はどんどん下に、掘り進められ、明治27年3月に第三通洞が
開さくに着手。これによって、第二通洞の存在意義が無くなった。

 第一通洞・第三通洞・第四通洞が存在するのに、第二通洞がない。不運の、第二通洞である。

 結果は、第二通洞は、完成されず、桑原技師の「上部鉄道+索道」を、とりあえず推進する事になる。
同時進行(フェイル・セーフ?)は、正解だったと思う。

 
 石ヶ山丈停車場から真下を見ると、端出場(現マイントピア別子)が、手に取るように見える
明治24年 ここに、上部鉄道から、連携する複式索道を作った。