東人の新居浜生活/番外編大和人のフランス見聞録
1999年9月22日より

東人が新居浜に転勤したのが94年4月、その年の6月にはフランスまで実習に行くことを命じられた。
Iさんと二人での出張であったが、Iさんは根っからの地元の人で、海外に出るのは初めてとのこと。
私は海外出張は何度か経験しているが、それまでは旅慣れた人と同行しての出張であった。今回は今までとは訳が違う。
このような二人が約1ヶ月、フランスに滞在することになった。


成田  
パリ  
盗難【更新】(97/08/25)      
TGV【更新】(97/08/25)    
V市  
レストラン  
  
街並み【更新】(99/01/27)
  
  
レンタカー【更新】(97/08/25)  
フランスパン  
フランス人の英語  
市場【更新】(99/01/29)
昼食  
ボーリング
ノートパソコン  
日本のニュース  
テレビ  
中華料理
夏至
高速道路
水道橋【更新】(99/01/27)
アヴィニョン【更新】(97/08/10)  
家庭
リヨン【更新】(99/01/29)

望郷
折鶴
帰国
帰国後の日本

再度訪問
ストライキ【更新】(99/07/30) 

フランス土産【更新】(98/11/01)



成田

この時はまだ関西空港は開港されていなかった。海外に出かけるには成田まで行かなければならい。
松山から羽田までは飛行機で行き、成田まで移動して一泊、そして昼のフライトでフランスに行くことになる。
私が出張の間、家族を妻の実家に預けることにした。新居浜を家族を連れて出発した。Iさんとは羽田で降りたときに落ち合ったが、私は家族と一緒であったため、モノレールで浜松町まで行き、そして東京で家族と別れた。Iさんは、直接バスで成田に向かった。 重いカバンを抱えての乗換はきつかった。東京から成田エクスプレスに乗ろうとしたら、満席のため少し遅い列車になり、東京駅でかなり待たされた。 成田で一泊して、昼頃の飛行機でパリに向かった。


パリ

パリに着いて、タクシーでホテルまで向かった。ホテルの前にタクシーが止まったが、このホテルはかなり古い。ホテルの入口は細い裏路地に面していた。ホテルの部屋もかなりの古さであった。このホテルは日本のCホテルが買収したものらしい。
荷物を整理して、Iさんと食事に出かけることにした。このホテルの古さから少し心配になって、Iさんに貴重品は置いて行かないように忠告した。これがアダとなってしまった。


盗難

ガイドブックに出ていたシーフードレストランに出かけた。混んでいて長いこと待たされた。ガイドブックには、日本語のメニュがあるレストランと書いてあったが、メニューにはフランス語の脇に日本語で料理名が書いてあるだけで、どんなものか分からない。適当に料理を頼んで食事をした。
食事が終わった頃には、辺りは暗くなっていた。ホテルまで歩いて帰った。 ホテルの入口のある路地まで来てホテルを探した。 ホテルの入口は暗くて良く判らなかった。
ホテルの入口を見つけた時、Iさんが一瞬叫んで、男が駆けて行くのが見えた。泥棒であった。Iさんは、持っていたカバンを小脇に抱えてガードして歩いていたが、ホテルの前で、「ここだ!」と指さした瞬間、ガードが緩み、その一瞬の隙にカバンをすられたのであった。泥棒を追いかけたが見失った。
ホテルの入口は鍵が閉まっていた。戸を叩くと中から開けてくれた。フロントで「警察を呼んでくれ」と頼んだ。丁度フロントに日本人の女性がいた。ホテル内の日本料理店で働いている人だと思う。その人が、警察を呼んでも無駄だと教えてくれた。その人もフランスに何年も住んでいるそうだが、3回ほど盗難にあったそうである。アラブ人に取られたと言っていた。
Iさんに話しを聴くと、鞄の中には現金と帰りの航空券が入っていたそうである。幸い、クレジットカードは無事であり、現金に困ることは無さそうであった。
現金の盗難は金額を証明する手段が無いため、カメラなどの物を取られたことにして海外旅行保険を請求したほうが良いと教えてくれた。
朝になると日本人のマネージャが来るので相談したら良いと言われ、部屋まで帰った。
部屋に帰って、現地時間の夜中の0時頃、日本では朝になるので日本に電話を入れて取られた航空券が使われないように手配を依頼した。
次の日、日本人のマネージャとも相談したが、良い手段は見あたらず、泣き寝入りをせざるを得ないようであった。
Iさんにとっては、初めての外国旅行の初日に盗難にあったわけで、気の毒であった。


TGV

盗難に遭った次の日、移動までの時間にIさんにパリを案内した。時間の関係から、ルーブル美術館と凱旋門までしか行けなかった。パリの地下鉄で凱旋門まで行った。パリの地下鉄の駅にある路線図で現在位置を探すのは簡単である。皆が指さすので現在位置の駅の辺りがすり減っているからである。
目的地のV市までは、パリから列車で行かなければならない。パリのリヨン駅というところから、フランスの新幹線であるTGVに乗って移動した。幸いTGVのチケットは私がまとめて持っていたので無事であった。
駅には改札口が無かった。切符を持たなくても、だれでも駅のホームに入れた。また、列車に乗るにもノーチェックであった。
TGVは新幹線といっても在来線のレールを走る特急列車といった感じで、外の景色を見てもそれほど速いとは思えなかったが、実際はかなりのスピードが出ていたはずである。
列車に乗っている間に、飲物を買いに席を立った。検札が来るかも知れないので、Iさんにチケットを預けて出かけた。
売店に行く途中で、乗務員が検札をしていた。私が通り過ぎようとすると「チケットを出せ」と言う。「友人が持っている」、「飲物を買ったらすぐ戻ってくる」と言っても聴く耳を持たない。 しかたなく、そのまま席まで戻った。その後、同じ乗務員が検札に来て、飲物を買いに行けた。日本の列車では検札では席番号を確認するが、フランスでは乗車している人が切符を持っているかをチェックしているようであった。
TGVの乗車時間は約3時間ぐらいだったろうか?。 ローヌ川という、アルプスを水源としてマルセイユで地中海に流れる川に沿って進む。 途中、リヨンを通った。リヨンは大きな工業都市であった。リヨンを通り過ぎて約1時間ほどで、目的のV市駅に着いた。ここでも改札は無かった。


V市

V市の駅では、出張先の会社のF氏が迎えにきてくれた。F氏の名前は日本人の名前である。父親が日本人で、母親がフランス人とのこと。日本にも住んでいたことがあり日本語が話せる人である。F氏の案内でホテルに入った。
小さなホテルであったが、ここで約3週間生活することになる。
V市はTGVが止まる駅ではあるがフランスの片田舎の町であり、日本人は我々の外には居ないはずである。


レストラン

F氏はその日の晩は用事があるとのことで、Iさんと二人で近くのレストランに入った。
レストランに入ると、ウェイター達が騒ぎだした。英語を喋る外人さんが来たので、だれが注文を採りに行くかもめていた。
一人のウェイターが覚悟を決めて注文を採りに来た。なかなか意味が通じない。フランス語のメニューを指さして、これは何か尋ねた。確か、「シャクーテ」とか言う物であるが、一生懸命説明するが判らない。最後に、厨房から実物を持ってきた。ソーセージであった。そのソーセージを注文して食べた。 ソーセージについては、ドイツでもソーセージでは通ぜず、「ヴースト」と言うことを思いだした。
長い滞在の間、食事をする度に苦労するのか、と思っていたら、F氏からセルフサービスのレストランを教えてもらった。そこでは、自分の好きな物を選んで取って、選んだ物を会計して支払うので言葉の苦労は殆ど無かった。


フランスに着いたときから、夜でも明るいな、と感じていた。夜、暗くなるのは10時頃からである。それまで外は明るい。
フランスは緯度が高いため、このように夏は昼間が長くなるのであった。緯度がさらに高くなると白夜の世界になるのだろう。
夏とは反対に、冬では夜が長くなる。その後、冬にフランスに行ったときは、朝の7〜8時でも、まだ薄暗かった。


街並み

   V市の街中を歩いてみた。フランスの建物は非常に古い石の家ばかりである。街の中には教会や公会堂などが有り、全てが石造りであった。フランスでは、数百年前の家が当たり前のようであった。星越の社宅が築60年で古いと思っていたが、フランスでは新築住宅の部類に入るだろう。 街中の道も石を敷き詰めた道路であった。
 
   街中には、ローマ時代の遺跡も残っていた。昔のローマ帝国が、ここフランスまでも勢力を延ばしていた頃の物らしい。


フランスには古い城が多く見られた。V市の街から見える岡の上にも城が見えた。また、V市から訪問先の会社に行く途中にも幾つかの城跡が見られた。
フランスには、このような古城が多くあるそうである。

古城佇む ローヌの畔
古い街並み、ローマの遺跡
歴史の世界に迷い込む


ヨーロッパは水が悪いといわれるが、ここV市の水道の水は飲んでまずいというほどの物ではなかった。
しかし、農薬で汚染されていて水に硝酸イオンが多く含まれているので飲まない方が良いと忠告された。スーパーマーケットからボトルの水を買ってきて飲んでいた。


レンタカー

訪問先の会社までは、最初はF氏の車で送り迎えしてもらったが、私は今回の訪問のために国際免許証を取得していたのでレンタカーを借りて通勤する事になった。どのような車が良いか聞かれたので、私が日本で乗っているのと同じ、フォルクスワーゲン ゴルフのマニュアルシフトを手配してもらった。
F氏と一緒にレンタカー屋に行き手続きをして車を運転した。左ハンドルの車は初めてで、慣れるのに苦労した。ギアチェンジしようとすると左手が自然に動き、ドアに手を何度もぶつけた。借りた車は、あまり良い車では無かった。ハンドルはパワーステアリングでなく、非常に重い。空調の効きが悪いと思ったら、空調無しの送風のみであった。また、借りた時には気がつかなかったが、後でフロントグラスに大きな「ひび」がはいっているのを発見した。F氏を通してレンタカー屋に問い合わせたら、この「ひび」は前からのものとのこと。そんな車でも修理せずにそのまま貸し出しているとは信じられなかった。
色々と難点は有ったが、この車でしばらくの間通勤した。
フランスでの運転の仕方で日本と特に違う点は、踏切の通行方法であった。フランスでは踏切でも一時停止などしない、そのままの速度で通り過ぎる。止まったりしたら他の車の迷惑になる。私もフランスのやり方に従ったが、踏切を通過する度に「これで良いのかなあ」と思った。
また、フランスの道には所々にロータリーがあった。道が分かれる所のロータリーに入り反時計回りに周り、行き先の出口から分岐するものである。
また、フランスの道路の一部には上下3車線の道があった。真ん中の車線は追い越し車線であるが、上り下り共通の車線であり、下手すると正面衝突の恐れのあるものである。
訪問先の会社の敷地の道路を走っているとき、道の右側に何台か車が駐車してあったため、道路の左側を通行した。それを会社の人に見られた。その後、その会社の人全員が私が道の左側を通行していたことを知っていて、Crazy Driver と呼ばれてしまった。
フランスでの運転にも慣れ、ギアチェンジも右手で出来るようになり、重いステアリングにも慣れた。
日本に帰国して自分の車を運転して驚いた。ギアチェンジする時、右手が動いてドアにぶつけた。パワーステアリングなのに力一杯ハンドルを切り、曲がりすぎた。

  


フランスパン

フランスの朝食は、オレンジジュースとコーヒーとパンが出てくる。
パンは本場のフランスパン。私はこのフランスパンで歯を悪くして、帰国後に歯医者通いすることになった。
フランスパンの皮は非常に固い。最初はフランスパンを食べるコツがわからず、歯に負担がかかった。
私の見つけたフランスパンの食べ方のコツは、パンを契って食べるとき、皮の部分を重ねて織り曲げて二重にして食べないことである。パンを契ったら、契ったパンを広げて皮の部分が一重になるようにして口にいれて噛む、これがコツである。マナーに合った食べ方かどうかは知らないが、歯のためにはこの方法が良かった。


フランス人の英語

フランス人は英語を話そうとしないということは良く耳にする。英語が分かっても、プライドが高いためにフランス語を話すのかと思っていた。
フランス人で英語ができる人はたくさんいたが、全然できない人もたくさんいることがわかった。
訪問先での実習でも、フランス語しか話せない現場の人と、日本語しかわからないIさんとのコミュニケーションはジェスチャであった。
フランス人の英語の特徴は、Hの発音ができない人が多いことであった。例えば、Happy は、「アッピー」、Niihamaは「ニイアマ」となる。
街で買い物等をしていても、英語でうまくいかない場合が合った。
V市の街には美術館があり、そこに入場したとき、入場料はいくらか聞いた。受付の人はその途端、指を折りながら、one two three ・・・ と数え始めた。英語での数字がすぐに出てこないようであった。


市場

     フランスの街では、週末に市場が開かれる。
 V市の街でも、土曜日に市場が開かれて、広場に多くの店が並ぶ。
 主に農産物や畜産物が売られていた。また、別の場所では衣料品の市場も開かれていた。
 土曜にはこのような市場を見て回って時間をつぶした。


昼食

実習中、昼食は会社の人と近くのレストランに出かけた。
欧米人は食事に時間をかけることは知っていたが、昼食に約2時間の時間をかける。レストランの外にもテーブルが並び、夏の時期はフランス人は好んで外で食事をする。フランスの人と同じ物を食べるが、量が多く、胃に応える。フランス人は最後にデザートまで食べるが、そこまではつきあいきれない。 人によっては、昼にワインまで飲む人もいた。
食事は主に肉類が多いが、一度だけ、ザリガニが出てきたことがあった。ザリガニと聞いたが、食べ易い形に調理されてくるものと思っていたら、そのままの姿で、ソースで煮たものが皿に山盛りで出てきた。手はソースでベタベタ、苦労して殻を開けても身は極僅か。食事した気がしなかった。


ボーリング

フランスの独特のスポーツにボーリングというものがある。ボーリングといってもピンを倒すものでは無い。砲丸投げのボールのような鉄の玉を地面に転がして、ぶつけ合ったりして競うものである。
 ある日、昼に食事をしていたら、ある部長が食事を早めに切り上げて、これからボーリングの試合があると言っていた。食事が終わって、その場所を覗いてみると、鉄の玉を転がしていた。午後の仕事の始まる時間だったが、試合は延々と続いていた。


ノートパソコン

今回の出張のため、ノートパソコンを別便で送った。しかし、なかなか到着しなかった。約1週間程遅れて荷物が届いた。ノートパソコンを開けたら、液晶部分が割れていた。これでは使えない。日本に連絡を取り、別のものを送ってもらった。それが届いたのは、実習が終わる直前であった。
それでも、パソコンを使って少し文書を作った。ノート用のプリンタは無事であったので、プリントしようとした。その時、プリンタケーブルのコネクタのサイズが違うことに気づいた。プリントできない。しかたなく、パソコンの画面を見ながら、レポート用紙に手書きで写し取った。


日本のニュース

海外にいると、日本のニュースがどうなっているか気にかかる。滞在中に、1$が100円を割った。また、フランス人から、日本の総理大臣が代わったことを教えられた。誰になったのかニュースを見ると、自民党の映像と社会党の村山委員長がおじぎをしている映像が映し出されていた。状況がよくつかめなかったが、社会党から総理大臣が出たようであった。このニュースの中でインタビューに応じた東京大学の教授が英語で「日本の総理大臣は、カラオケでマイクを取り合うようにコロコロ代わる」と言っていた。
日本に帰国してからも、新聞などで「日本の総理大臣はカラオケのように代わると海外から言われている」と書かれていた。「カラオケ」の例えは日本人から出たにもかかわらず・・・。


テレビ

フランスでテレビを見ていて、日本と同じテレビコマーシャルを見かけた。
セコムのコマーシャルで、長島茂雄が象をつれているコマーシャルである。
F氏に話しをしたら、フランスの番組で海外のコマーシャルを紹介するものがあるそうであった。
 フランスで日本のマンガが放送されていた。「メゾン一刻」である。畳の部屋で、卓袱台の前に座って騒でいる画が映し出されていた。 登場人物は、ジュリエット等の名前になっていたが、フランス人はこのような映像を見て、どのように解釈しているのだろうかと思った。


中華料理

V市の街にも中華料理屋があり、F氏に連れていってもらった。 フランスの中華料理は少し違っていた。メニューには、カレーまで入っていた。 ベトナム料理などのエスニック料理も含めたものを中華料理というようである。
ベトナムはかつては、フランス領であったことを思いだした。フランスにはベトナム人やベトナムに近い中国人が居て、このような料理になったのではないかと思った。


夏至

6月21日にフランス全国の街でコンサートが開かれるとF氏から聞いた。フランスだけではなく、欧米の多くの国でお祭が開かれるらしい。この日は夏至である。冬には日が短くなる欧米では夏至を祝う風習があるようである。
街に出てみた。街の至るところに特設のステージが設けられ、歌や楽器の演奏が続いていた。ステージの無いところでも、パフォーマンスが開かれ人が群がっている。
街の教会の扉が夜でも開いていて、人が出入りしている。入ってみると人々が礼拝堂に腰掛け、パイプオルガンの厳かな音楽が流れていた。
コンサートは朝まで続いていたようであった。

夏至の日の  祭の音に誘われて
妻子忘れて  街をさまよう


高速道路

休日にF氏にドライブに連れていってもらった。アビニョンの方にいくとのことで、高速道路に入った。高速道路の入り口付近から、何台かの戦車が出てくるのが見えた。
「高速道路を戦車も走るのですか?」と聞いたら、F氏は「まさか」と答えた。 しかし、実際高速道路に出てみると、反対側の車線を戦車が走っていた。


水道橋

 アヴィニョンの近くにあるローマ時代の橋に案内された。谷間の中に石造りの橋がかけられている。これは、ローマ時代に遠くから水を引くために谷間に橋をかけたものだそうである。橋の上は歩いて渡れる。戻るときは、水が流れていたという水路を歩いた。人が立って歩けるほどの広さであった。橋から下を見ると、すごい高さである。このような難所に石の橋を建設したローマ人の技術に敬服した。 もし、日本で同時代にこのような橋が建設されても、地震で壊れて残っていないだろうと思った。  


アヴィニョン

アヴィニョンに着いた。アヴィニオンも古い街であった。街全体が城壁に囲まれていた。ローマ法王が幽閉されたという法王庁宮殿を案内してもらった。


家庭

D氏に連れられて、リヨンに行った。D氏は私たちが日本を立つころ日本に来ていて、工場建設に立ち会った人である。
D氏がホテルまで迎えにきてくれて、リヨンに向かった。 最初、リヨンの近くのD氏の自宅に行った。古い石造りの家である。百年ほど前の家を買ったらしい。D氏はこの家を買って、自分で内装工事をしたとのこと。 家の中はひんやりとして涼しかった。D氏の家で家庭料理をご馳走になった。 私は海外には何度か出かけていたが、個人の家に招待されたのはこれが始めてであった。


リヨン

 その後、リヨンの街に案内された。リヨンは大きな都市であった。多くのフランスの街は、古い石造りの建物が残されているが、リヨンの中心部には、高層ビルが立ち並んでいた。
リヨンの大聖堂(サン・ジャン大司教教会)などを案内してもらった後、D氏と別れることになった。

 帰りは電車で帰ることになっていたので、駅まで送ってくれた。 駅に着いた頃、天候が急に悪くなった。雷が鳴り、突風が吹きだした。
 


リヨンから電車に乗ってV市に向かった。外は雷である。同じ雷でも大陸の雷はスケールが大きいようで、大きな雷鳴が鳴り響いた。 途中で電車が急に止まった。雷で送電系統に故障が起こったのだろう。葡萄畑の見える場所で、電車は止まったままである。約1時間後に電車が動きだした。V市に着いた頃には、雷は治まっていた。


望郷

滞在が長くなるにつれ、日本に帰りたくなる。
新居浜には、まだ数ヶ月しか住んでいなかったが、私が帰りたく思ったところは、日本の新居浜であった。
Iさんは、フランスの山の木々を見ると、故郷の山を思い出すと言っていた。


折鶴

数年前から、私は海外に出かけると折鶴を折るようにしている。ある人から、外国の人に折鶴をあげたら、1年後でも大事に持っていた、という話しを聞いたので、私も鶴を折るようになった。 ホテルに泊まった時には、メイドさんへのチップに鶴を添えて置いてチェックアウトしていた。
今回のフランス訪問は、長期の滞在であり、持って行ったノートパソコンも壊れていたのでホテルでの時間は充分あった。暇つぶしに鶴を折っていたが、帰る頃には100羽程度の折り鶴が貯まった。折り紙は持って行かなかったので、いろいろな紙で鶴を折った。ホテルにある便箋、ホテルに置いてあったフランス語が印刷されたパンフレット等の紙なども鶴にした。 実習の最後の日に、ほとんどの鶴を紙袋にいれて会社に持って行き、会社の人達にあげた。


帰国

日本に帰国する時が来た。V市からTGVでパリのリヨン駅に着いたら、タクシーで空港に直行した。
Iさんは、帰りの航空券を盗まれていたため、空港での手続きに少し手間取った。
日本行きの飛行機に乗り、成田に向かった。
フランスを立ったのは夕方、成田に着いたのは午前中だと思う。成田からバスで羽田に向かう。バスは高速を通っているが、すごい渋滞でノロノロ運転であった。Iさんと私も疲れて頭が朦朧としていた。バスの中で、意味の判らない会話をしているのが聞こえる。まだ、外国にいるような感じがした。しかし、その会話は日本語であった。東北弁で喋っていたのだった。
羽田から松山に行き、JRの松山駅から上司に帰国したことを電話で報告した。出発前の予定では、帰国した次の日は調整のため休めるはずだったが、その電話で、上司より「明日、出勤しろ」と言われた。


帰国後の日本

帰国した次の日に出勤した。頭がボーとしていて、仕事にならなかった。私は時差ボケには弱い体質である。
Iさんは初めての海外出張であったが、時差ボケは大丈夫だという。今まで交代勤務を経験していたので、調整には自信があるとのこと。しかし、実際の時差ボケを経験して「交代勤務の時とは違うなあ」と言っていた。
日本に帰って、ニュースでは不可解な事件が報道されていた。松本で起きた「ガス漏れ」事件であった。ガス漏れで何で大きな被害が出るのか判らなかった。 オウム事件の始まりであった。

 



再度訪問

 最初の訪問から1年半ほど経て、打ち合わせのために再度フランスを訪問した。
今回は、一人での出張。前回の盗難事件があったため、パリでは別のホテルに泊まった。到着の次の日、TGVの乗るため、パリのリヨン駅に向かった・・・が。


ストライキ

  パリのリヨン駅についたが、雰囲気が何か違っていた。人々が床に腰掛けて待っている。また、銃を持った兵士が駅に立っている。
予定していた電車の表示が掲示板に出てこない。何か変だ。  
フランスの会社に電話しようと思ったが、公衆電話は全てテレホンカード専用であった。テレホンカードがどこで手にはいるのかも判らない。銃を持った兵士に聞いて、売店でテレホンカードを買った。
テレホンカードを包んでいたセロハン紙を破り、電話機に入れたがつながらない。そこに、ルンペン風のおじさんがやってきて、助けてくれた。フランスのテレホンカードには、金属の回路のようなものが一部に印刷されている。この部分を指で触れてショートさせると使えるようになるらしい。
訪問先の会社にダイヤルするがつながらない。
また、ルンペンおじさんに助けられた。パリ市内から市外に電話するときには16をダイヤルするのだそうである。
やっと会社に連絡がついた。先方のフランス人がでて、フランスの国鉄のストライキであり、駅にいてもダメだから、近くのホテルに泊まれと言う。
ストライキが有るなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに・・・と思った。パリで宿泊するホテルも連絡していたのでホテルに連絡でも入れてくれたら良いのに。
F氏につないでもらい、日本語で話しをした。鉄道が動く見込みがないので、飛行機の手配をお願いした。
再度、連絡をとり、最寄りのリヨンまでの飛行機はとれないが、マルセイユまでなら飛行機が手配できたとのこと。急いで、マルセイユ行きの飛行機が出る空港に向かわなければならない。
持っていた鉄道のチケットには、乗車しなかった場合には不乗車の証明をもらわないと払い戻しができないことが書いてあった。駅員に不乗車証明をもらいに行った。駅員は、臨時の時刻表を指さし、V市までならこの電車が出ると言い、不乗車証明をしてくれない。
しかたなく、また会社に電話して飛行機をキャンセルして列車を待った。
何度か電話をしているうちに、電話ができなくなった。困っていると、また例のルンペンおじさんが来て、カードがもう終わったことを教わった。また買い直して電話したが、あのルンペンおじさんは一体何物なんだろうかと思った。

電車は、臨時時刻表の時間には出なかった。駅でじっと待つ。
すると、機動隊のような集団が入ってきた。フランス人達が拍手をする。その機動隊がどこで何をしたかはわからない。
しばらくして、V市に行く電車の表示が掲示版に示された。皆が走っていく。私も急いでその電車に向かった。
やっと電車に乗れたが、パリのリヨン駅では約6時間待たされたことになる。

今回のフランスのストライキは、国鉄職員の定年が延長されようとしていることに反発して発生したとということを後から聞いた。日本では定年の延長は歓迎されると思うが、フランスでは定年が延長されると恩給生活に入るのが遠のくととらえて反発が生じたらしい。 鉄道が動かないため、パリ周辺の道路の込み具合も異常な状態となってた。
帰りの時も鉄道は動かなかったので、リヨンから飛行機でパリに向かった。


フランス土産

 フランス訪問時に買った土産を紹介します。

 V市の一般の店で見つけたピンクの象のぬいぐるみ。

 同じくV市の店で置いてあった皿。
 左がイギリス製の平皿。
 右がフランス製の少し深みのある皿
 どちらも日本円にして、\100前後だったと思う。  

 パリの大丸で買ったフランス人形。
 570FF   約 \11,400
 現在、テレビの上に置いている。
 当初、娘が抱いたりしていたため、睫毛が片方取れてしまった。