東人の新居浜生活
/
新居浜見聞録
/
新居浜再訪 2006
遠登志
2005年に、新居浜の遠登志橋が登録有形文化財に指定されたと聞き、一度訪れてみたいと思っていた。
新居浜に居たころにも遠登志の入口までは行っていたが、近くに駐車する所が無く、その先までは行ったことがなかったことが心残りであった。
2006年の3月、愛媛県まで出かける予定があり、新居浜に立ち寄って一泊した。
バスでマイントピアまで出かけ、着いたのが9時40分頃。
そこから歩いて遠登志渓谷に向かった。
鹿森ダムから下りる道は工事をしていたが、従来の小さい二つのトンネルを通るS字の坂道を歩いて登った。
鹿森ダムまで上り、遠登志渓谷まで辿り着いたのが、10時15分頃。
「何だ! マイントピアから歩けば良かったんだ。」
車の生活に慣れてしまうと、これだけの距離を歩くのも敬遠していただけであった。
遠登志渓谷の入口から少し先に行くと、ロープが張られ、通行止めになっていた。
ここまで来て引き返さなければならないのか と思ったが、近くにある山口食堂に問い合わせると、別の道があるという。
少し上がった所に登山口があった。
銅山峰登山口
東 平 ま で
2.5km
1時間30分
銅山峰ヒュッテまで
5.0km
3時間00分
銅 山 峰 ま で
6.0km
3時間30分
新居浜市教育教育委員会
山道を登り、遠登志から東平を結ぶ山道に合流する。
途中に 「展望台」という標識があり、その方向に行ってみた。
鹿森ダムが良く見晴らせる場所に出たが、ここが展望台なのかはわからない。
鹿森ダムと反対の方向を見ると、赤い遠登志橋が遠くに見えた。
展望台らしき所からもとの道に戻り、山道を下りて
遠登志橋
に着いた。
遠登志橋を渡ったが。遠登志渓谷入口方面に続く道にはロープが張られ、通行止めになっていた。
この道が通行できていたら、遠登志橋までは近かったようだ。
また、銅山峰登山口に戻り、マイントピアに戻った。
マイントピアで少し時間をつぶし、11:40のバスで戻った。
マイントピアに着いたのが10時頃なので、約2時間以内で遠登志橋までの往復ができたことになる。
時間に余裕があれば、バスを使ってマイントピアから東平まで往復するのも可能であろう。
次の機会に挑戦してみようと思う。
総合科学博物館
平成6年(1994)の11月に、新居浜では総合科学博物館、宇和島では歴史文化博物館がオープンした。
どちらも立派な建物で、愛媛県は裕福な県だと当時は感じた。
しかし、最近になって、これらの施設の維持・運用が厳しくなってきているようで、愛媛県行政改革・地方分権推進委員会「公の施設のあり方検討部会」にて県教育委員会所管の施設について、存続、統合、譲渡もしくは廃止の見直し案が2006年9月に出されるとのことが報じられた。
その検討の対象に、総合科学博物館や歴史文化博物館も含まれているという。
確かに、これらの施設は大きすぎたのかも知れない。
国の施設や道路などで、税金の無駄遣いとヤリ玉に揚げられているものは多くあるが、総合科学博物館などは、科学知識の啓蒙活動と言う面で、それなりの機能を果たしているものと思える。
総合科学博物館でも、中期運営計画を作成し、入場者数と観覧料等の収入の増加、経費の削減目標を立てて取り組んでいる。
これを実現させるためには、県民が施設を活用することであろう。
県の施設が有効に使われていないということは、税金が無駄に使われていることになる。
閉鎖などになったら、せっかくの県民の財産が無駄になってしまう。
近くの方は、科学博物館に足を運んで、県民の財産がどれだけの利用価値があるのか、さらに利用されるためにはどうしたら良いのか、見直されてはどうだろうか。
私も、次の新居浜訪問の機会に立ち寄ってみようと思う。
9年間、県民税を納めてきた者として。
総合科学博物館訪問
2006年5月に新居浜を訪れる機会があり、総合科学博物館に立ち寄った。
新居浜方面からのバスは、9時50分着が最初となる。
9時50分に着いても、10時からのプラネタリウムの投影には駆け足になる。
常設展示を見て回った。
一部新しい展示があったが、全体的にはあまり変化は無いように感じた。
12:00からのプラネタリウム投影を見て、13:05のバスで新居浜方面に戻った。
午前中は入館者は少ないように感じたが、12時前後からから、団体のツアーの人や子ども連れの家族が入館してきた。
団体の入館者は、常設展示とプラネタリウムを見ていくだろう。
子ども連れの家族の人達が、入館者として把握されているのだろうか。
入館者が少ないことで閉鎖も検討されているとのことであるが、入館者は次のように分類できそうだ。
A:団体旅行に参加して、コースとして来館
B:近県の人の来館
C:近隣の人の来館
D;近隣の人の常連
Dの常連の人については、「友の会」に入会しての来館が多いだろう。会員が増えなければ入館料収入は一定となる。
Cの近隣の人は、常設展示を毎回見ることは無いだろう。プラネタリウムの番組が新しくなると訪れるか、無料の企画などを見て帰る人達であろう。
A.Bの人は、入館料収入にはなるが、リピーターになることは少ないだろう。
入館者の構成がどのようになっているか判らないが、Dの常連の人については、入館料収入の増加は望めないだろう。Cの人で、無料の企画に訪れる人は入館料には寄与しないだろう。
公立の施設としては、無料の企画への参加者の実態も把握すべきであろうが、そのような集計はされていないようだ。
常設展示やプラネタリウムの入館料収入の増加については、AやBの人を増やすことであろう。そのためには、ここでしか見られないものを増やすことでは無いだろうか。
以下に、再訪して感じたことなどを記します。
常設展示を見て、扱われている内容が、やや古いように感じた。
最新の科学情報をいち早く扱い、わかりやすく解説するようなコーナーも欲しい。
今なら、情報通信の分野、テレビの薄型化等の技術の進展、地球環境を考えた科学技術の未来などであろうか。
環境問題についての取り扱いも昔のままで一般的なことに触れられているものであった。
別子の山の緑化や川之江(現四国中央市)の製紙産業での公害への取り組みの成果など、地元での活動内容を強調しても良いと思う。
産業館の展示も余り変わっていない。愛媛の産業の紹介としては、時代毎の変遷で構成するのはどうであろうか。別子銅山から始まる化学産業、林業、重機械への発展などがわかるような展示にしても良いと思う。
屋外展示については、案内の表示が目立たない。見逃していく人も居るのでは無いだろうか? 屋外展示には、ここにしか残っていない現物がある。もう少しPRしても良いだろう。
屋外展示に、新しくタービンブレードやケーシングが設置されていた。
屋外展示の説明板には風雨に晒されて読みにくいものがあった。
東京・上野の国立科学博物館に行って幻滅したことは、作られた自然環境の中で子ども達が遊んでいたことであった。愛媛の科学博物館であれば、本当の自然に触れあう場所があっても良いだろう。
プラネタリウムはあまり変わっていなかった。
以前は、プログラムの後半は子ども向けのストリー風の内容が多かったが、今回見た「春の星空 〜銀河を覗く宇宙の窓〜」では、一般向けの解説と感じた。
生涯学習館の利用率は低いように感じた。
こちらの方は、科学技術の活動に限らず、広く一般の団体が利用しやすい環境を整えるべきであろう。
その他
外来者の立場としては、荷物を預ける場所が欲しい。少し離れたホールの入り口にコインロッカーがあったが、これは入場口の近くに設けるか、案内表示をするべきだろう。
星越の家
新居浜を離れてからも、四国に仕事で出かける機会に、可能であれば新居浜に立ち寄り市内を見て回っている。
新居浜に立ち寄る時には、星越の山田社宅に寄るのが常であった。
以前住んでいた家は、当家が出て行ってからは、空き家のままであった。
庭には、自分が種を撒いて育てたオシロイバナが、自然に種を落として育っていた。
昔からあったカンナの花は、増えた球根を植え替えたが、毎年多くの花を咲かせている。
庭に生える雑草も、昔のままである。
家族が8年間過ごした思い出の残る家と庭であった。
2006年6月25日の日曜日、四国での仕事のために移動することがあり、新居浜に立ち寄った。
星越の山田社宅に行くと、少し様子が違っていた。
通称、柳通という川沿いの道の辺りの社宅の取り壊し工事が始まっていた。
道の北側の家は既に取り壊されて、更地となっていた。
道の南側にもネットが張られ、解体工事が行われていた。
近づいて見てみると、壊しかけで工事が中断している家があった。
この家こそ、
長年住み慣れた家(鉱48)
そのものであった。
隣の家は既に撤去され、重機の通り道になっていた。
この家も、とうとう、壊されることになったのか。
築80年といわれ老朽化が甚だしいので仕方のないことではあるが、淋しい思いがする。
日曜のため解体工事は中断していて、まだ家の形が残った状態で止まっていた。月曜になったら、隣の家のように跡形もなくなっているだろう。
解体されることを知っていて出かけたのでは無いが、絶妙なタイミングで新居浜を訪れ、家の最期の姿を見届けることができた。
新居浜を去ってからも時々訪れる最後の住人を家が知ってのことか、家が私を呼んだようにも思える。
さようなら、そして ありがとう 星越の家。
四国での仕事は6月28日に終ったが、星越の家のその後が気になり、再度、新居浜に立ち寄ってから移動した。
予想した通り、星越の家は解体・撤去されていた。
家の最期の姿を見届けられたのは幸いであった。
庭にあった桜の木が残っていた。
張られたネットの外側になるが、庭にあった枇杷の木も残っている。
家は無くなっても、庭の思い出は残るのだろうか?。
この庭で草花を育て、春にはツクシが生え、夏には娘と花火で遊び、秋には彼岸花が咲いていた。
解体工事は東隣の区画に移って進められていた。
柳通の南側の家は全て無くなるのだろう。
この後、この場所がどのようになるか、次回に来ることがあったら確認したい。
2006年9月下旬、再び新居浜を訪れた。
昔住んでいた家から柳通りに面した東側の一帯の家が全て無くなっていた。
西側の家は、取り壊されずに残っていた。
家のあった場所は、庭木も無くなり、ロープが張られて立ち入り禁止となっていた。