細かい数字を、見てみると
平成21年11月21ー23日 山根大通りストリートミュージアムが開催された。
その中の行事の1つに、末岡照啓講師の「山根精錬所と別子鉱山鉄道」の講演があった。
その時、「新居浜の登録有形文化財」 ・・ 新居浜市広瀬歴史記念館発行・末岡照啓 監修の、小冊子をもらった。
その中の、一文
「上部鉄道は、明治26年8月の開業からわずか18年間の営業期間であった。
当初の所要時間は約40分で、4駅があった。」 と、ある。
私は、石ヶ山丈停車場・一本松停車場・角石原停車場の、3駅だと思っていたが、さて、あと1駅とは ・・・
角石原と一本松の中間地点に千人塚があるが、お参りの為に駅を作ることも無いだろう。
そう言えば、第2岩井谷の横に保線小屋と給水所の看板が在った。
保線小屋 跡
給水タンク 跡
保線小屋跡は、プラットホームにしては、石垣が高すぎる。これでは駅とは、呼べないだろう。
給水タンク跡の方が、石垣の高さ的には、プラットホームに近い。
しかし、長さは数mで、駅とは呼べない。しかも、一本松停車場から、300m余りしか離れていない。
これは、駅とは呼べないが、蒸気機関車の給水に必要で停車したから、駅に入れたのか?
それとも、私がまだ読んでない資料があり、どこかに、駅があったのか ?
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「愛媛温故紀行」 財団法人えひめ地域政策研究センター 発行 には、
末岡照啓先生が、一歩踏み込んで、
”当初の所要時間は約40分、途中駅は岩屋谷、一本松の二駅であったが、・・・”
とあります。 現在は、第2岩井谷と呼んでいますが、昔は、岩屋谷と言っていたのかもしれません。
特に、荷卸するわけでもなく、給水で立ち寄り、横の保線小屋に、資材を降ろすくらいだったでしょうが、
末岡先生が、活字にしているのであれば、他の3駅に比べ、規模は小さいですが、やはり、ここも、駅なのでしょう。
所要時間は、約40分とある。
石ヶ山丈停車場 −− 角石原停車場間 5,532mを40分で走ったとすれば、平均時速8,298Kmとなる。
資料には、8Kmで走った。と、12Kmで走った。と、両記述がある。
これは、平均時速8Kmで走っていたが、途中「一本松停車場」と、もう1箇所停車
? して40分かかっていて、
運行速度は12Kmだと考える。が、いかがだろうか ?
速度八哩の時における牽引力は、十二噸であった。(別子開抗250年史話)
牽引力 12,8Km/Hで、12t (別子鉱山鉄道略史)
の、記述を見ることが出来る。
( 一哩=1609.344m X8=12874.752m ) 約12,8Kmなので、運行速度は、約12Kmだった。 として良いと思う。
橋梁と橋台・溝渠は、23か所あるが、・・・・
別子鉱山鉄道略史には、曲線112 ・ 橋梁22 とある。
橋台・溝渠は、煉瓦造で、名も無い最短の1.1mから、最長15mの唐谷三連橋までよく残っている。とあるが、たしかにその通りである。
メジャーを持って登山しないから、測ったことは無いのだが、上の写真のように、たとえ短くとも、煉瓦造りの橋台が、残っている。
住友は、煉瓦が好きなのか ? この山の中に、何万個、いや何十万個の煉瓦が、残っているのか。
考えただけで、ワクワクしてきます。
100年以上経った現在でも、この様に残っているという事は、煉瓦を使ったことは、正解だったのではないでしょうか。