別子鉱山鉄道の工費

 上部鉄道    122,971円

 下部鉄道    205.052円   とあります。 (明治26年 当時)

  別子鉱山鉄道略史には、
 昭和56年の現在物価換算として、合計 328,023 X 38,000倍 = 約124,6 億円

                                         と計算されている。

 昭和56年当時の、大卒初任給 120,800円 ・ 高卒初任給 106,500円とあるから、
現在では、1,5倍と計算すると、200億円に近い金額になります。

 現在で、200億円と言う金額が、明治24年から26年の2年間に、
一地方都市である、新居浜に投資されたのですから、町は、好景気に沸いたことは想像できます。

 また、日本でもまだ蒸気機関車が珍しい時代でもありました。
弁当を持って、1000mの山の上まで、見学に行ったとの話も、うなずけます。

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平成の現在では、笑い話にされる様な出来事ですが、

 現在に置き換えますと、
もし、良質のレアメタルが大量に採掘されて、
輸送手段として、日本でもまだ、珍しいリニアモーターの列車が、山の上を走る事になるなら
私は、弁当を持って見物に、出かけていきます。

 そんな、感じだと思います。


 別子鉱山鉄道を作る、原動力になった、広瀬宰平の、米欧巡遊に要した費用が、1万6千8百70余円とある。
現在では、6億円位となります。
                              米欧巡遊の、日程は、こちらから
 
 「住友の元勲」 咲村 観 著 に、詳しく行動が、記されているので、興味が有る方は、見てください。
還暦(61歳)の、広瀬の精力的な行動が、判ります。
明治時代の、61歳といえば、現代と違い、引退して、もう年寄りに、分類されてもおかしくない時代だった ? のでしょうが、
広瀬は、ロンドンで、胃痛の為医師の来診をうけて、2−3日静養したくらいで、いたって健康だったようです。
 
  元気でなければ、何も出来ない !!            
                            現代でも、同じだと思います。