復旧に、向けて

 明治32年 8月28日の夜に、別子・大水害が起こった。
 翌日、8月29日には、早くも、山根に運輸課仮派出所をもうけ、人夫の募集と、
端出場までの、運輸の事務所を開いたようである。
 これは、現代企業でも、出来ない所が多いと思う。 マニュアルが無い時代に、この機敏さ !!
マニュアルではなく、その場の、判断力 あるいは、トップの統率力とも思う。
ドラマで、「私が、全責任を取りますので、この様ににさせてください」と、言える人は、
銀幕の世界の、シナリオだけになってしまったのか ??

 下部鉄道は、山田川(惣開小学校の南側)と小味地川(慈眼寺の南側)の堤が破壊したようだ。
が、復旧に数十人の工夫を投入し徹夜で復旧工事を進めたようである。
そのかいあって、「8月30日未明に、汽車を通す事を得たり」とあり、惣開ーー山根 間は、開通した。
残る 山根ーー端出場間だが、内宮神社の上部一帯が被害がひどかった様で
線路が宙吊りになったところもあり、運輸課では手に負えず設計部員 香西文雄の監督下
足場仮工事を施工して10月18日に完成した。
復旧までの間は、人夫により運搬を行なっていたようで、一日平均百人内外との記録もある。

 9月 3日に、 江見水陰は、「午前7時に惣開を、汽車で出発し、立川村の入口の給水所にて留まりぬ」
と書いてある。山根までの、復旧は早かったようである。
                                          参照ページ


 左が、複索道   右が、単索道

 石ヶ山丈 −− 端出場 間の、索道であるが、複索道(明治24年完成)は被害小なるを以って復旧工事は
2日にして終り、直ちに回転を始めたようである。
しかし、重力に頼る複索道は、荷物を降ろすのには良いが、荷物を上げるには、不都合であった。
旧別子の被災地へ、物資を持ち上げる為に、下ろす焼鉱が底をついたので
「夜間、土石ヲ堀リ、之ニ供給セリ」とある。
(普段は、下げ荷は、焼鉱で、上げ荷は、コークス・石炭が多かったようだが、この時は、緊急物資の輸送が急務だったろう。
旧別子に13,000人が住み、救援隊も到着して作業をしている。が、・・・
「玄米は沢山あるのだけれど、水車場が悉く押し流されたので、白米が一つもありません。
それで、この通り、尾道や今治から輸送するのです。」
 

                                     とある。
 つまり、重力で動く索道だったので、下荷以上の物は、持ち上げる事が出来ないので、
下げ荷の焼鉱が、なくなり、夜間に土砂を掘って、その重みで下るのを利用して、緊急物資を持ち上げたともある。
 「此時別子ニアリテハ生存上必要ナル飲食ハ全ク流失セラレ、
飢渇ニ陥ラントシ之カ運搬ニ迫ルヲ以テ字山根ニ仮事務所ヲ設ケ、
人夫ヲ募集シ一時ノ急ヲ救ヘリ 」

                        とも、ある。

 端出場電気単式機関場の被害写真

 単索道(明治31年完成)は、動力で動くので上荷に有効だが、「その発電所は泥土に埋没して修理は容易にあらず」とある。
また、「役員は、力を悉くし修理復旧をなせしも微妙なる機械なるを以って 容易に其用を為さす」とあり、
9月26日に至り運転できる状況になったようである。
 この件に関して、興味深い記事がある。
「32年 9月 2日 損傷ヲ生シタル端出場発電所電気機汽罐室、単索道ドラム室等ノ復旧工事ニ着手シ、
土木課員ト謀リ、破損家屋ノ修繕方法ヲ定メ、電気方ニ協議シ、浸水セシ電機ノ乾燥、巻線ノ巻替、
又ハ単索道重量函ノ新設等、陸続工ヲ起シ、同年17日ニ至り、始メテ蒸気機関ノ試運転ヲ為スコトヲ得タリ。
電気機ハ其巻線中ニ湿気ノ侵入セシヲ以テ昼夜乾燥室ニ入レ、之ヲ除去セントセシモ、容易ニ去ルコト能ハス。
漸ク同月廿三日ニ至リ 試験上始メテ好成績ヲ得タリ 是ニ於テ其翌日廿四日単索道全部ノ運転ヲ試シ、
一ノ異常ナキコトヲ認メタリ ・・・・ 」

 この時の、端出場発電所は、現在残っているマイントピア対岸の、煉瓦作りの水力発電所(明治45年稼働)ではなく、
火力発電所です。水に浸かった電気設備は、復旧に苦労した様です。
また、水力発電所稼働に伴い、火力発電所は、廃止されました。