下りは、バックだった ?
上部鉄道は、延長 5,532m
そこを、時速12Km(8Kmと書いている本もある)で、走っていたといわれている。
石ヶ山丈停車場(標高 835m) −− 一本松停車場(950m) −− 角石原停車場(1,100m) 間
単純に計算すると、片道 30分弱で走っていたことになる。
機関車2両が、交替で、貨車4両から5両を連結して、1日に、 4往復していたと、記述があるから、
ターンテーブルに乗せて、方向転換するより効率が良かったのだろう。
皆さんが運転している、乗用車。
前進は、普通4−5段変速であるが、バックは1段しかない。
負荷のかかる、登りは、最急勾配 1/18 (平均勾配 1/21) もあったから、
加速のタイミングを見計いながら、前進で突破したのだろう。
この上部鉄道の機関車の構造は良く知らないのだが、登りは、前進。下りは、後退だったと思う。
写真が、何枚か公開されているが、石ヶ山丈から、角石原へ向かう写真しかない。
石ヶ山丈停車場
一番奥の機関庫の前 石ヶ山丈を出発する所 右上に社宅が見える。明治32年の大水害の時、「神の火」と言われたのは、この社宅が燃えた?
切通し
角石原停車場
出発の石ヶ山丈・到着の角石原・両停車場の、図面を見ても、ターンテーブルは、ない。(下記)
中間点の、一本松停車場にも、ない。
(中間点で、方向転換しても意味が無いとは思うが、前進しかしていなかったら、非常時の時に、中間駅に、あっても不思議ではない)
馬力の少ない昔の、機関車だから、登りの急な所は、予め加速をつけたりして、気を使い、下りは、バックでブレーキに任せていたのだと思う。
軌間762mm 最小曲線半径が、15,2m 不安定だったかもしれないが、
軌間が、小さかったから成せる業。新幹線の広軌では、絶対に無理。
Nos.8.9号の製造記録から最小回転半径 12mであったことが判る(クラウスの機関車追録・近藤一郎著より)
とあります。線路を見ると、急カーブだと思っていたが、まだ余裕があるようです。
それ位、別子銅山で使用されていたクラウスは、小型の機関車です。設計ぎりぎりの運行は、レールにもフランジにも良くないでしょうから、
安全係数を掛けて、15,2mになったと思います。別子銅山で使われたクラウスの機関車は、すべて50HPだったとも書いてあります。
普通車より、軽四の方が小回りがききます。
それにしても、山間部で112ヶ所ものカーブと、22ヶ所の橋梁があり、運転には随分気を使ったと想像できる。
ネットで、見つけた記事
時速20km/h程度の速度で蒸気を焚き運行していた別子1号。
上部鉄道として使用していた機関車を下部鉄道に利用し銅鉱石などを星越・惣開まで運んでいた。
石炭を入れる容器は案外小さい。日に3往復には十分だったのだろうか。
蒸気機関車は端出場に向かって車両の先頭(通常の走行)が前を向いて運行する。下り(端出場から星越)は車両の後方が先頭になる。
これは車両が転換する機能を持っていなかったためである。旅客として進展した国鉄とは技術基準が異なっていたのだろう。
詳しくは、こちらから
機関車を、転換する場所がありそうな下部鉄道でも、この様な、運行をしていたのだから、上部鉄道では、やっぱり下りは、バックだったと思って、間違いないと思う。