第一通洞(標高、1,100m)
明治15年(1882年)2月上旬・代々抗 「南口」から、高さ9尺(2.7m)幅6尺の、向鎚開始
明治16年 10月・葡萄谷(角石原) 「北口」から、起工
明治19年 2月9日貫通・10月 完成
総工費 8,613円の数値試算
予定より、3年早く完成して牛車軌道が、敷設され、銅山越(1,294m)を通らなくて物資輸送が出来るようになった。
明治26年、上部鉄道が出来て、第一通洞は、ますます活躍する事になる。
第一通洞・北口・ 銅山峰ヒュッテのすぐ南にあります。
2010年 2012年
内部が、崩落?していました。 これで、通行は、出来なくなったと思われます。
明治15年ー19年に、作られました。通洞(トンネル)の、長さは、1,010mあります。
銅山峰ヒュッテの、故・伊藤玉男さんは、住友鉱山から、第一通洞の鍵を、預かっていて、南口にある、旧別子の整備をしていたようです。
と言うことは、最近まで通ろうと思えば、通れていたのかもしれません。
明治20年代・左の方に、北口が見える。 右は、北口牛車軌道・トンネルの入口は、狭そうだ。
南口(代々抗)
現在
明治20年代・上の建物は、採鉱課、測量事務所
延長3370尺(約1021m) 代々抗利用で坑内36番受口まで開削済みだったので、
実質2272尺(約682m)を、掘り抜けばよかった。
明治15年 約70m 掘った。
16年 100m
17年 246m
18年 245m
7年後の、明治22年の予定より、3年早く貫通した為、工費も 8,613円 で済んだ。
住友別子鉱山史(上巻) 468ページ
1 第一通洞には、明治31年には、牛馬20頭に馬車が数両あり年間700万貫目(2万6250トン)余の貨物を輸送した。 と有ります。
江戸時代には、1貫目=3,736Kgだった様で、X700万貫目=2万6152トン になります。
明治時代には、1貫目=3,75Kgと、定義され X700万貫目=2万5900トン になるはずですが、数字が一致しません。
細かい数字は、置いておくとして、2万6250トンを、365日運び続けると、1日71,918Kg=約71,9トンになります。
ほぼ水平道なので、馬車1回500Kgを運ぶとすると、1日に144車という計算になります。
往復、荷物があれば、72往復になります。
第一通洞は、明治15年から掘られ、明治19年完成。長さ 1.010mでした。
人間が歩く速度の、時速4Kmとして、15分で、通行できます。
と言う事は、1時間で、4回通行。2往復、出来ます。
1頭で単独運行して、72往復するのなら、36時間かかり不可能です。
複線鉄軌を敷設し馬車によりて運搬
よく一緒に山に行く S氏のブログにありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/takahiro1949/28761913.html を、見て下さい。
この記事の、前後にも興味深いページがあります。
S氏が、南口(代々坑)の、寸法を計っていました。
複線として、馬車がすれ違えるのだろうか ? それとも、鉄の線路が2本で、今で言う単線だったのだろうか ?
入口の寸法なのだが、トンネル本体は、もっと狭そうだ。
現在残っている、北口(角石原側)の、線路の寸法を、測ってきました。
54,5Cmでした。 明治19年完成ですから、もう120年以上前です。軌道幅が、変わった可能性も考えられます。
ただ、第1通洞に、電車とかの、動力を使った話は、聞いておりません。
大きな変革がなければ、1100mの高地で、今まで使われていたトロッコの、軌道幅を変えることは無いと思われます。
S氏から、メールが来ました。山村文化34号。8ページに、南口の、蓄電車が、写っている。
それが、下の写真です。
現在残っている、レールは、蓄電車が走っていた時の物でしょう。
馬車鉄道の時は、レールの幅が、違っていたかもしれません。
もし、すれ違うことが出来ないならば、私の説が、浮上してきます。
(朝)角石原 を、Aグループの3頭の馬車が、出発します。 −−−> 15分後、Aグループが、南口に到着します。
荷物の積み下ろしを、15分でします。
Bグループの3頭の馬車が、出発します。 −−−>15分後、Bグループが、南口に到着。
Aグループが、角石原(北口)に、到着 <−−−− Aグループ(3頭馬車)が、南口を出発
この方法でしたら、12時間の、稼動で可能です。
もし、4頭でしたら、9時間で運ぶ事が出来ます。
人間のトンネル内の移動は、馬車の後について行けば、可能です。
当時の、一般の人は、草鞋(わらじ)を、履いていたと思います。
もし、トンネル内、15分で、3頭、ならば、1時間で12頭です。歩きながら、ウンチをするかもしれません。
後ろに付いて行った、人間のわらじに、生暖かいグニューとした感触を、感じた方もいるかと思います。
真っ暗闇とは言いませんが、所々に、細々と、灯りがあったと思われますが、ほぼ、暗闇と言ってよいと思います。
江見水陰の、明治32年8月28日の別子大水害の、取材記事、「星」の中に、以下の記事があります。
。
石ヶ山丈より角石原まで、3哩35鎖、此所は別子銅山の北門にして、11町52間の長隧道あり。
人車鉄道二條を通す。我は松明を人夫に持たせ、徒歩にて進入したり。
内部には点火しあれど、暗黒なる事闇夜よりも甚だし。
我既に九泉の下に在るかと疑われぬ。隧道の南門に出れば、此所既に別子銅山。
これは、あくまで、私の想像論です。 住友別子銅山から、資料が出てない分、想像が先走りします。
いつも言っていますが、きっちりとした仕事をしている住友ですから、記録もどこかに残っているはずです。
末岡先生、頑張って下さい。 エールを、送ります。
今更、秘密にする事項ではないでしょうから、歴代の膨大な資料の中から見つけて発表して下さい。
2012年5月、西赤石山のアケボノツツジを見に行く途中、角石原に寄りました。
北口
寸法を、測ってきました。高さ230cm。幅は、コンクリートの内側が、187cm
その横が、左右30cmでした。合計247cm。馬が、すれ違えるかもしれません。
入口は、ボルトで固定されていて、扉を開ける事は、考えていないようです。